(その一)不意撃ち

藤堂頼賢の狙いは、聡自身にあるようだというのは、服部崇の拙い説明でも十二分にわかった。
『そやけど、何でや?』
目の前にいる人物に訊いても無駄なような気もする。
そんな聡の表情を察したのか、服部崇はずばり切り込んできたが、意外とその攻め方が鋭いのに、聡は驚いた。
「おまえがライバルやからとちゃうか?」
平凡な若者であれば、兄妹の間での情愛などまず前提としないはずなのに、服部崇はそんな皮相な拘りなど無視していた。
「なんで俺がライバルやねん?恵美子は俺の妹やで・・」
無駄な足掻きだと思いながらも、念のためジャブを繰り出した。
『そら、そうやな!と思えば上出来やし・・・』
「とにかく、おまえに会いたいそうや!俺の役目はそれを伝えるだけや!」
二人は店を出たところで別れた。
服部崇が足早で四条通りの方角へ走って行く後姿を見ていた聡は、吐き捨てるように呟いた。
『服部!おまえ、俺を待ち伏せしてたな!』
二人の約束の場所は、上賀茂神社の競馬会神事(くらべうまえしんじ)の馬場
で、明後日の午後6時と決まった。
京都三大祭りの一つである葵祭りは、上賀茂神社と下鴨神社で毎年5月15日に行われ、正式には賀茂祭りと呼ばれる。
石清水八幡宮の南祭りに対して北祭りとも呼ばれ、平安時代、「祭」と言えば、賀茂祭りのことをさした。
石清水祭、春日祭と共に三勅祭の一つであり、庶民の祇園祭に対して、賀茂氏と朝廷の行事として行っていたのを貴族が見物に訪れる、貴族の祭りだった。
さまざまな儀式がある中で特に有名なのが、下鴨神社の流鏑馬神事(やぶさめしんじ)と、上賀茂神社の競馬会神事(くらべうまえしんじ)だ。
上賀茂神社の御神体として遠くに見える神山(こうやま)を眺めながら、競馬(くらべうま)をする大きな馬場を、藤堂頼賢は指定してきた。
聡は、藤堂頼賢の真の狙いが読めない内に会うことは、極めて危険だと承知しているだけに、次に打つべき手を模索するのが先決だと思った。
『よっしゃ、今から六条朱雀野までいったろ!』
既に午後4時を過ぎていたが、四条通りから堀川通りまで路線バスに乗り、堀川通りから花屋町通りまではタクシーに乗ったが、狭い六条通りを越えないと六条朱雀野には行けない。
京都の東西通りには、十条通りから二条通りまであるが、六条通りは車が走れないほど狭く、通称、魚の棚通りと言われ、錦市場の小路と同じように、店が立ち並んでいる。
タクシーを降りて魚の棚通りを歩いて行くと、数百年の年輪を髣髴させる島原大門が見えた。
島原大門を潜ると輪違屋がすぐに見えてきた。
輪違屋は、創業元禄元年(1688年)で、300年以上の歴史を誇る置屋で、5人の「太夫」と1人の「振袖太夫」を置いている。
「振袖太夫」は、「太夫」の見習いで、「太夫」のような従五位の格式はまだ持っておらず、髪の結い方も違い、着物の袂が振袖になっている。
舞妓は、お茶屋で1年間住み込みの修行を積んだ16歳から22歳までの女子をさし、髪を地毛で結い、だらりの帯をしている。
芸妓は、その名の通り、芸を披露する女性であり、中途半端な芸では勤まらない。
立方と地方がいて、立方は舞いを舞う人、地方は三味線や御唄をする人で、立方は元舞妓が圧倒的に多い。
一方、太夫は、身なり装束が彼らとまったく違う。
高度の芸と高い教養を要求され、芸妓に芸を教えるだけの力量を求められる。
更に、地方のように三味線、太鼓、御唄も扱うことができ、茶道、書道、香道、俳句といった高度の教養も身につけていなければならない。
そんな芸妓や舞妓たちが、今夜のお座敷の準備をするために、忙しそうに出入りしていた。
聡はその中に恵美子がいないかと探してみたが見つからない。
「あのう、春若さんは・・・?」
近くにいた舞妓風の女の子に訊いてみた。
「ああ、春若姉さんやったら中にいてはりますが・・・呼んできまひょか?」
「春若の兄やて言うてもろたら・・・」
「ええ!春若姉さんのお兄さんどすか!ちょっと待っとくなはれ・・・」
舞妓は急いで店の中に入っていった。
聡が島原に来たのはこれが初めてだ。
町の雰囲気がまるで違う。
昔のままの風情がそのまま残っている。
京都は他の町に比べて伝統を大事に守っているとは言え、時代の流れに完全に逆らうことはできない。
近代化の幕明けを果たした欧米諸国が、日本という国はさておき、京都という町だけは尊敬の対象としている。
その理由は、京都の伝統を守る精神に対してだ。
外国の観光客が京都や奈良に訪れても、近くの大阪に来ないのは、大阪が伝統を大切にしない町であることを見抜いているからだ。
『京都で生まれて、京都で育ってほんまによかったなあ!』
聡は感慨に耽っていた。
「まあ!聡兄さん、どないしはったん?」
恵美子は不意撃ちに遭ったのに、嬉しそうな表情で聡の前に立っていた。