(その一)人生の魔

恵美子の話題から逸れて、真っ青な顔色に少し赤色が混ざってきた聡の様子に一安心した服部崇が、再び、話を戻した。
「おまえの妹が、藤堂頼賢の子供を孕んでいるみたいやで!」
服部崇のこの一言が聡のその後の一生に付き纏うことになる、それは彼自身にとっても予想に難くなかった。
況んや、『人間ってなんやろ?』、『生きるってなんやろ?』の追求のために、京都大学哲学科に入った彼にとって、その予想は容易なことであった。
人間の一生には、魔がさすことが数回ある。
否、突き詰めれば「誕生」と「死」の二回だ。
一生の始まりである「誕生」という魔は自分ではどうしようもない。
一生の終わりである「死」という魔は自分でどうにかなる。
だから、人間の一生は、始まりがなくて、終わりがある。
他の生きものの一生は、始まりもなく、終わりもない。
だから、彼らには自我がなくて、自然という全体と一体だ。
人間は、生まれてくることは自分の意志でできない、つまり、始まりはないが、死ぬことは自分の意志でできる、つまり、終わりはある。
だから、人間だけに自我があって、自然から乖離してしまった。
その結果、無知の魔と理解の魔という二つの魔が、人生には付きものなのだ。
未知の魔と既知の魔と言ってもいいだろう。
予測不可能な魔と予測可能な魔と言ってもいいだろう。
宿命の魔と運命の魔と言ってもいいだろう。
聡は講義で聞いたある詩を思い出した。

宿命の魔がさす

人の一生には 魔がさすときが 七回ある
三十才までに せいぜい 二回だ
五十才代の十年間に三・四回ある
その間に二回ぐらい
だから早死にする世代は三十までか 五十代だ
その間に二回ぐらいあるが まず順調だ
三十才までの魔は 不注意の魔だ
だから 避けることは 可能だ
五十代の魔は 宿命の魔だ
避けること、予防することが 不可能だ
この種類の魔がさすと 神も避けたがる
それなら その宿命の魔と仲良くするしかない
宿命の魔は すこし あまのじゃくなところがある
いやだ いやだ と嫌うと 寄ってくる
すきだ すきだ と追いかけると 逃げていく
不注意の魔は 天使の下僕
宿命の魔は 悪魔の下僕 そして 神の下僕

『俺は二十二歳やけど、三十までに二回魔がさすというのは、ほんまやなあ!』
母親の倫子のこと、そして、今回のことを考えているのだが、彼が経験した魔は、不注意の魔、避けることが可能な魔ではなかったように思えた。