(その一)想わぬ話

倫子に暗黙の了解を得て、増絵は恵美子を暫くの間引き受けることにした。
暗黙の了解とは、無断でと言う意味である。
人間は過去や未来のために生きているのではなく、『今、ここ』のために生きていることを増絵は実践したのだ。
過去の花若太夫よりも、『今、ここ』の春若を採ったのである。
「おかあはん、恵美子はどないしたんや?」
聡は家を空けたままの恵美子のことが気になって仕方がない。
妹のことを兄が心配しているのに、肝腎の父親は、大晦日に雷を落として以来、まるで他人事のようだ。
『八坂神社で自分に何か言いたかった筈や・・・』
だが、倫子は返事もしなかった。
聡は子供の頃から母の倫子に苦手意識を持っていただけに、突っ込んだ話ができないのだ。
昨日の夜などは、一睡もできずに布団の中で悶々としていた。
夜間に眠れない辛さは、経験した者でないと理解できない。
眠れないことよりも、否定的な想いが去来することから想像する極限の事態に押し潰されそうになる。
その圧迫感が想像もできないほどの苦痛なのだ。
聡は悶々とする布団の中で決意していた。
『明日、輪違屋に行ってみよう!』
その前にちょっとでも情報収集しておきたかったために、倫子に訊いてみたまでで、返事に期待はしていなかったが、黙殺されたのがなんとなく気になった。
東山三条から島原のある朱雀野六条まではかなり遠いが、三条大橋を渡って河原町通りに出て、京極の商店街から錦市場を抜けたところで、聡は高校の時の同級生とばったり会った。
「よお、畑やんか!」
同級生の方から声を掛けてきてはじめて気がついた。
それほどに心は動転して虚ろだったのである。
「あぁ!服部か?」
服部崇。
聡と同じ洛北高校から一年浪人して立命館大学に進んで、今は三回生である。
京都大学文学部哲学科を現役で合格した聡をずっと尊敬している青年で、彼も聡と同じ哲学科を専攻している。
気のない返事をするが、相手はお構いなしにたたみかけてくる。
「ちょっと、お茶でものまへんか!」
『俺は、そんな暇あらへんのや・・・』
口に出せず、胸の中で呟いていたら、服部崇から想わぬ話が飛び出した。
「おまえの妹のことで、ちょっと話があるんやけどな・・・」
思わせぶりな口調にちょっと不快な気分になったが、話が話だけに、相手の話に乗るしかなかった。
高倉通りに面した酒落れた喫茶店に二人は入った。
「藤堂頼賢というけったいな奴が、うちの学科の三回生にいるんやけどな、そいつから、おまえの妹の話を聞いたんや・・・」
聡にははじめて聞いた名前だったが、何処かで覚えがあった。
そう思った瞬間、顔から血の気が引いていくのが、自分でもわかった。
「畑!どうしたんや?顔が真っ青やで!」