第七章 宗教が消滅する日

利益至上主義、すなわち、拝金主義の典型的な組織社会である大企業の背景に、実は、宗教が潜んでいたのである。
そして、
資本主義の化身である、そんな大企業とは、唯物社会であることは言うまでもない。
では、
資本主義社会と冷戦で対決した共産主義社会は唯心社会だったのか?
実は、
カール・マルクスがその著『資本論』で主張した共産主義こそ、唯物論そのものであった。
まさに、
資本主義社会と共産主義社会が対決した冷戦の実体は、唯物主義思想の覇権争いに過ぎなかったのである。
そして、
共に唯物主義思想でありながら、資本主義社会の盟主であるアメリカがキリスト教(プロテスタント)社会なら、共産主義社会の盟主であるソ連もキリスト教(ロシア正教)社会だったのである。
まさに、
イデオロギーとして唯物主義を志向しながら、宗教をも志向する。
まさに、
唯物主義=宗教の証明に他ならない。
では、
宗教がなぜ唯心論だと信じられてきたのか?
まさに、
宗教が唯物論の元祖に他ならないことに、気づかれたくなかったからである。
では、
誰に気づかれたくなかったのか?
奴隷や国民といった、被支配者側の連中に気づかれたくなかったからである。
では、
気づかれたくないと思ったのは一体誰なのか?
皇帝や天皇や王といった、支配連中側の連中が気づかれたくなかったからである。
まさに、
支配と被支配の価値観は正反対である証左に他ならず、支配者側にも、被支配者側にも気に入られる宗教などあるわけがない。
そこで、
宗教は、“この指留まれ!”の号令をかける道具をつくりだした。
まさに、
“この指”こそ、神の概念に他ならなかった。
まさに、
唯心論=唯神論の証左に他ならない。
唯物論と唯心論は、表裏一体の一枚のコインを成す二元論の二元要素に過ぎなかったのである。
先ず、
まさに、
最初の間違いである。
次に、
二元論の二元要素は、本質的には同質関係であるのに、二律背反関係と取り違えてしまった。
まさに、
西欧社会の知性の最大の錯覚である。
この二重標準(ダブル・スタンダード)が、西欧社会に功罪両面を発生させたのが、近代社会だったのである。
まさに、
宗教の派生種(同質)に過ぎない科学が、恰も、宗教と二律背反関係にあるがごとく登場したのが、西欧世界の近代社会であった。
その結果、
西欧近代社会で誕生した近代哲学、近代心理学、近代物理学、近代数学が、二重標準(ダブル・スタンダード)、すなわち、二重の錯覚の社会にしてしまったのである。
特に、
二元要素を二律背反関係に取り違えた間違いが、その功罪両面において大きな自己矛盾を来してしまった。
先ず、
功的側面としては、科学を飛躍的寵児へと育て、近代社会を利便性の飽くなき追求へと追いやった点がある。
次に、
罪的側面としては、科学はしょせん宗教の派生種(同質)であることに対する自覚を忘却の彼方を押しやった点がある。
そして、
近代の延長線上にある現代は、宗教の派生種(同質)に過ぎない科学をより発展させた西欧社会が、先進社会として人間社会の頂点に立った時代であった。
その結果、
この二重の過失を冒した西欧社会を中心にした現代世界は、拝金主義の極みである超拝金主義へと進み、格差社会を超格差社会へと導いてしまったのである。
その原因は偏に、
ソ連との冷戦に勝利したアメリカの一極主義がもたらしたものである。
まさに、
資本主義思想と共産・社会主義思想を対立軸とする冷戦こそ、二元論の二元要素を二律背反関係と捉えた錯覚の証明に他ならない。
その結果、
勝つものと負けるものが発生して、ソ連が敗北して、アメリカが勝利して、世界は一極主義化してしまったのが、現代社会なのである。
ところが実体は、
資本主義思想と共産・社会主義思想は二元論を成す二元要素に他ならず、二律背反するのではなく、補完し合う関係に他ならなかったのである。
従って、
二元論を成す二元要素が衝突すると対消滅するのが宇宙(森羅万象)の法則からして、ソ連が消滅するなら、アメリカも消滅するのが宇宙(森羅万象)の法則なのである。
二十一世紀の最初の大事件は、何と言っても、ニューヨーク同時多発テロ事件だろう。
爾来、
新しい戦争形態としてのテロ戦争が急速に世界に拡大していった。
まさに、
「文明の衝突」と言われている所以に他ならない。
なぜなら、
同じ一神教のみならず、同根宗教、すなわち、同じ神を信じるキリスト教とイスラム教という同胞(ハラカラ)宗教同士が、24億と14億という圧倒的多数の信者を擁する中で展開する骨肉の争いだから、「文明の衝突」と呼ばれる所以なのである。
では、
資本主義と共産・社会主義の衝突であった冷戦は、「文明の衝突」ではなかったのだろうか?
だが、
資本主義と共産・社会主義の衝突は、違った文明の相克ではなく、同じ文明の中での覇権争いに過ぎなかったのである。
言い換えれば、
まさに、
資本主義と共産・社会主義は表裏一体を成す一枚のコインで、二律背反関係を成していたわけで、その結果、対消滅するのが決まりだったのである。
ところが、
共産・社会主義という東側陣営の盟主だったソ連という国家は1991年に崩壊消滅したのに、資本主義という西側陣営の盟主だったアメリカという国家は未だに(対)消滅せず、今日に至っているのである。
なぜなら、
資本主義と共産・社会主義は対立する二元論世界の表裏関係、すなわち、間違った二元論世界の二元要因に過ぎなかったからである。
従って、
資本主義と共産・社会主義の対立は、対消滅するのが宿命だったのである。
一方、
21世紀に入ってはじまったテロ戦争は、一極支配するアメリカとイスラム過激派による反発は、持つものと持たざるもの、すなわち、富と貧、支配するものと支配されるものの対立だったのである。
まさに、
持つものと持たざるもの、すなわち、富と貧、支配するものと支配されるものの対立こそ、12000年前に起こった文明社会の黎明期からあった文明社会の中での衝突に他ならなかった証左である。
まさに、
21世紀に入ってはじまったテロ戦争が、「文明の衝突」の所以に他ならないのである。
文明の衝突とは、アメリカとイスラム過激派の衝突ではなく、支配者側と被支配者側の衝突に他ならなかったことを、アメリカの国民もイスラム諸国の国民も自覚するべきで、そういう観点からすると、テロリズムは弱者の立場である国民側の唯一対抗手段に他ならないのである。
まさに、
従来の文明とは、弱肉強食の自然淘汰説の顕現に他ならないのである。
つまり、
強者が弱者を食う社会こそが、従来の文明社会に他ならないのである。
言い換えれば、
支配者側が支配し、被支配者側が支配される、支配・被支配二層構造の社会こそが、従来の文明社会に他ならないのである。
一方、
新しい文明とは、食物連鎖の法則の顕現に他ならないのである。
つまり、
それぞれが食う側と食われる側の役目を担う、新しい文明社会に他ならないのである。
言い換えれば、
支配者も被支配者もない、みんなが平等のスクエアー型の新しい文明社会に他ならないのである。
そして、
いま起こっている「文明の衝突」とは、まさに、従来の文明と新しい文明の衝突に他ならないのである。
言い換えれば、
いま起こっている「文明の衝突」とは、支配・被支配二層構造の文明社会と、支配者も被支配者もない、みんなが平等のスクエアー型の新しい文明社会との衝突に他ならないのである。
そして、
新しい文明社会では、国益第一主義など論外であり、国家間の境界線こそが、従来の文明社会が繰り返す戦争の原点にあることを自覚しなければならないのである。
そこで、
拙著「日本語が壊れていく」第四十一章「世界共通言語」を下記引用します。

前にも、お話しましたが、今後、世界の言語にローマ字が大きな位置を占めて行くだろうと申し上げました。
この傾向は日本だけのものではなく、全世界レベルのものになっていくと思われます。
では日本の場合には、今ある漢字、仮名との関わりはどうなっていくでしょうか。
ここに一つの見本が既にあります。
数字であります。1から9までのアラビア数字はほとんどの国で公式に使用されております。
日本語での数字は一、ニ、三・・・九でありますが、普段使用しているのは、アラビア数字であります。
アラビア数字だからといって、アラビアで使われた数字ではありません。
アラビア語には、独自の数字があります。もとはインドで考案された数字で、それをアラビア人がヨーロッパに伝えたことからアラビア数字と呼ばれているだけです。
それぞれの国の言語に、独自の数字を持ちながら、汎用性からみれば、アラビア数字をどこの国も使用しています。そしてそこの国の文字としても認められています。
数字が、世界共通の文字になっているのなら、他の言葉もその可能性は充分あると思うのです。
他の例で言えば、暦もそうであります。現在ほとんどの世界で西暦を使っておりますが、その国の暦と併用が多いようです。
日本で言えば、元号と西暦であります。
中国などは陰暦を使っております。アラビアにもイスラム暦がありますし、イランなどは独自のイラン暦があり、西暦で3月21日が元日で、ノールーズと言われています。
しかし、国際的には、西暦であります。
西暦は、云わずと知れた、イエスキリスト生誕の年を西暦元年としておる訳ですが、キリスト教でない国でも西暦を使っております。
そうしますと、1月から12月、日曜日から土曜日といった言葉もアラビア数字と同様の共通語の方が便利な訳です。
こういった言葉は、日常生活の上では、極めて多いことがわかります。
ただ発音の問題があります。
数字でも書けば、1、2、3、・・・9となりますが、読めば、
日本語では、イチ、ニ、サン、・・・。
英語ではワン、トゥー、スリー・・・。
中国語では、イー、アール、サン、・・・。
フランス語では、アン、ドゥー、トゥワー・・・。
とみんな違う訳です。
これを、みんなローマ字の言葉にしてしまえば、発音はほぼ同じになります。
そうしますと、表意文字としても同じで表音文字としても同じであれば、これは同じ言語になる訳です。
普通、同一言語というのと、共通言語というのがあります。
同一言語とは、日本語、英語、フランス語、ドイツ語、・・・世界に5000言語あると言われています。
しかし、共通言語となると、かなり圧縮されます。
一番端的な例がスペイン語、ポルトガル語、イタリア語ではないでしょうか。
結局、源流は同じラテン語であったのが枝分かれしただけのことであります。
そうするとラテン語が同一言語で、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語が共通言語となります。
こういった共通言語を、ローマ字でくぐれば、かなりの比率で、表意、表音文字が共通化され、日常生活する上においては、ほぼ同一言語になり、言葉の障壁がなくなることが可能になります。
多分、あと20年もすれば、共通語彙が相当増えて、共通言語に近い形になるものと思われます。
言語が同じになると考え方も似てきて、結局、宗教も文化も同じになっていくでしょう。
世界から戦争を無くす唯一の手段が、この方法であります。
しかし、一方で、各民族固有の文化、文明が消え去っていくことになる訳です。
どちらが善いとかいった問題ではなくて、人類が、他の生物と違った点は、この文明を持って来たからこそ、ここまで発展して来た訳です。
果たして、共通言語が世界平和に貢献する方が良いか、固有の文明の競争による切磋琢磨による人類の発展の方がいいのか、それは今、ここで結論を下すのは早過ぎるのではないでしょうか。

共通言語を持つ国同士が戦争をすることはない。
まさに、
イギリスとアメリカが最たる例である。
独立戦争で戦った両国だが、以後、敵味方になったことはなく、常に連合国同士を守っている。
なぜなら、
英語とアメリカ語は、共通言語だからである。
現に、
内戦が起こっているのは、同じ国でも遣っている言語が違っている者同士の間のことであり、共通言語を持つ者同士で殺し合いすることはない。
冷戦時代のユーゴスラビアという国が最たる例であり、同じ国家でありながら、人種も違う、宗教も違う以前に、言語が違っていたから、チトーというカリスマと東側陣営という箍で括られていたものが外れた途端、セルビアとボスニアという別々の国になって壮絶な殺し合いをしたのは、セルビア語とボスニア語という違う言語の所為であった。
その中で例外がある。
まさに、
日本と韓国が最たる例である。
1910年から、日本による韓国併合が為され、1945年に解消されて以後、味方同士になったことはなく、常に、敵味方同士になっている。
だが、
日本語と韓国語は、共通言語なのにである。
その原因もやはり言語の問題に突き当るのである。
イギリスとアメリカは、それこそ全く同じ英語を遣っているだけではなく、英語という言語が屈折語という世界に5000種類に及ぶ中で圧倒的多数を占めるものであるのに対して、日本語と韓国語は膠着語という、他にモンゴル語、トルコ語、スワヒリ語程度と少数派のものであるからだ。
やはり、
旧約聖書が語っているバベルの塔の話には、ある真理が隠されているようである。
まさに、
言語問題が、差別・不条理・戦争を繰り返す人類が抱えている根源にある証明に他ならない。
共通言語を持つ国同士が戦争をすることはない。
言い換えれば、
言語が違うと戦争をする。
結局の処、
戦争とは、意見の相違の結果起こるもので、意見の相違の発生は、言語の違いが原因である。
この事実は一体何を示唆しているのか?
まさに、
考え方は同じでも、表現方法が違うと、意見の相違が発生するのである。
英語と日本語の違いでたとえれば、
英語表現では、
You should know better.
この英語表現を直訳の日本語にすると、
あなたはより良く知るべきです。と肯定文になる。
この英語表現を意訳の日本語にすると、
馬鹿なまねはやめなさい。と否定文になる。
そして、
英語も日本語も意味(考え方)は同じなのである。
すなわち、
馬鹿なまねはやめなさい。なのである。(ただし日本人側の表現だが)
まさに、
英語では肯定文が日本語では否定文になる。
英語は屈折語の一つで、屈折語は5000ある世界の言語の90%以上を占める。
日本語は膠着語の一つで、膠着語は朝鮮語、モンゴル語、トルコ語、スワヒリ語程度しかない。
こういった言語の構造の違いから、考え方は同じでも表現の違いで意見の相違が生じるのが、われわれ人間の言葉なのである。
このことを理解していなかったら、意見の相違が発生し、戦争にまで発展することになる。
従って、
旧約聖書のバベルの塔の話に人類が逆戻りして、他の生きものたちと同じように、世界一言語を遣うしか、人類間の争いを無くさせる道はない。
まさに、
神など、百害あって一利もない存在なのである。
そこで、
第十一章【世界共通言語】で引用した拙著「日本語が壊れていく」第四十一章「世界共通言語」にこそ、世界一言語のヒントが随所に表現されている。
先ず、
数字表現は、アラビア数字(1から9まで)でほぼ世界一言語になっているが、それぞれの国毎の表現も使用されているのを廃止して、アラビア数字で完全に統一する。(日本の場合、漢字の一、二、三・・・九を廃止)。
更に、
暦表現は、西暦でほぼ世界一言語になっているが、それぞれの国毎の表現も使用されているのを廃止して、西暦で完全に統一する。(日本の場合、平成元号を廃止)。
更に、
各種の目盛りも、メートル法でほぼ世界一言語になっているが、それぞれの国毎の表現を使用されているのを廃止して、メートル法で完全に統一する。(アメリカの場合、インチ法を廃止)。
ところが、
隣のカナダでもメートル法を採用し、最友好国であるイギリスでも貨幣十二進法を廃止して十進法にしているのに、アメリカは頑なまでにインチ法やフィート法を堅持しているのは、自国が世界一の国だと自惚れているからである。
ドイツの歴史家ヨーゼフ・フォークトによれば、「世界史」という概念が誕生したのは20世紀に入ってからで、それまでの世界の概念は、自国が一番であるという自惚れからくる自分たちの世界というもので、文化や言葉や宗教が違う世界を総体として捉えていなかったのである。
まさに、
現在のアメリカがその象徴であり、嘗ての中華思想も同じである。
まさに、
それぞれの素数が唯一性を持つように、宇宙、自然社会はすべて唯一性を持つのに、人間社会だけが、唯一性を持たない自然数に基づいているから、人間社会はすべて唯一性を持たないのである。
その結果、
人間社会だけが、支配・被支配二層構造の世襲・相続の差別慣習を持ち、男性社会であり、宗教や科学が横行し、差別・不条理・戦争を繰り返し、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送る羽目に陥っているのである。
まさに、
唯一性を持たない所以の帰結に他ならないのである。
まさに、
自他の区分け意識が、自我意識(Ego)を生み、延いては、他者を差別する意識(差別意識)が生じたのである。
従って、
本当の世界観とは、自分だけの世界観ではなく、自他の世界観を認める世界観でなければならないのである。
そして、
自他の世界観を認める世界観の前提が、世界一言語であることは言うまでもなく、5000種類にのぼる言語を持つに至った人類は、まさに、バベルの塔時代の唯一の言語に戻るためには、先ずは、種々の価値の物差しの数式表現を統一することからはじめなければならないだろう。
世界一言語化を実現するには、先ず、数式記述方法を統一しなければならない。
そして次には、
文字、すなわち、文章の統一をしなければならない。
まさに、
人類という動物が、話し言葉をはじめて得たのが、バベルの塔の物語に他ならなかったのである。
なぜなら、
当時の人類は、他の動物と同じように、一種類、すなわち、唯一の話し言葉しか持っていなかったからである。
まさに、
アダムとイブが善悪の判断をする禁断の果実を、神の命令に背いて食したことによって、エデンの園を追放された物語が象徴していることは、人類が唯一の話し言葉を忘却したことが真相なのである。
唯一の世界から複数の世界へ。
実在の世界から幻想(映像)の世界へ。
静止宇宙から運動宇宙へ。
まさに、
自分の世界(内界)とその他の世界(外界)の区分け基準に、過去・現在・未来という時間の概念を創造した結果に他ならない。
現に、
われわれの宇宙が137億年前に誕生した、というビッグバン説は、過去・現在・未来という時間の概念を創造した結果に他ならない。
その結果、
静止宇宙→運動宇宙へ変化した。
言い換えれば、
実在の世界→幻想(映像)の世界へ変化した。
唯一の世界→複数の世界へ変化した。
そして、
変化するということは、進化することに他ならない。
逆に言えば、
変化するということは、退化することに他ならない。
従而、
ダーウィンの進化論は退化論でもあることを肝に銘ずべきである。
まさに、
進化=退化は、進化・退化二元論を構成している証左に他ならないのである。
そして、
進化・退化二元論では、退化が実在で、進化は退化の不在概念に過ぎないのであることも肝に銘ずべきである。
まさに、
変化するとは、進化するのみならず、退化することでもあることを、肝に銘ずべきである。
言い換えれば、
バベルの塔以来、人類は進化と共に退化もしてきたのである。
まさに、
人類だけが、5000種類にものぼる言語を有している事実は、進化のバロメータであるのみならず、退化のバロメータでもある証左だ。
まさに、
世界一言語化は、人類の究極の退化への防御策に他ならないのである。
人間社会が、自然社会から追放されたのか、自ら出ていったのか?
そんなことなど、どうでもいい問題なのである。
問題は、
なぜ自然社会と一線を画すようになったのかにある。
まさに、
自然社会を超えるためである。
では、
一体何のために?
まさに、
森羅万象、宇宙から地球の自然社会や人間社会まですべて、一元論世界(始点)→二元論世界(円周)→三元論世界(終点)という円回帰運動をしていて、人間社会が自然社会から出た理由は、一元論世界(始点=自然社会)から二元論世界へ移行するためで、延いては、三元論世界(終点)へ行き着くためであったのである。
そして、
三元論世界(終点)とは、自然社会を超えた社会、すなわち、超自然社会であり、二元論世界(円周)に生きる、我々人間の目差すべきは、超自然社会に他ならないのである。
従って、
先ず忘れてはならないのは、
我々人間は、何事も善い悪いで判断する二元論世界(円周)を生きているが、この世界で留まってはいけないのである。
更に理解しなければならないのは、
二元論世界の本質は、一方を善い、他方を悪いと判断するのではなく、善い悪いという判断をしないため、すなわち、善い悪いを超えるためにある。
言い換えれば、
一方を善い、他方を悪いと対立要因として捉えるのではなく、善い=悪いという補完要因として捉えるためにある。
その結果、
二元論世界を超えることはできるのである。
なぜなら、
善い=悪いという真理を理解するには、一度、善いと悪いと二元要素で捉える経験無しでは、不可能だからである。
現に、
善い悪いという二元的に捉えていない自然社会の生きものや、われわれ人間社会の子供たちは一元的生き方をしているが、善い悪いと二元要素で捉える経験をしていないので、善い=悪いという補完要因として捉えることはできない。
だから、
善い悪い、を超えることはできないのである。
まさに、
善い悪いもない社会が一元論自然社会に他ならない。
善い悪いがある社会が二元論人間社会に他ならない。
善い悪いを超える社会が三元論超自然社会に他ならない。
そして、
進化・退化二元論世界の先頭を切って生きているわれわれ人間社会の大人の目差さなければならない世界こそ、超自然社会に他ならないのである。
善も悪もないのが、自然社会や人間の子供社会。
善と悪があるのが、人間の大人社会。
善と悪を超えるのが、超自然社会。
言い換えれば、
善=悪なのが、超自然社会。
まさに、
正さま=逆さまなのが、超自然社会に他ならないのである。
では、
この事実は一体何を示唆しているのだろうか?
まさに、
(1)森羅万象、すべては、正さま物質(正物質)と逆さま物質(反物質)で形成されていることを示しているのである。
更には、
(2)正さま物質(正物質)も逆さま物質(反物質)も同じ一つのもので、表象が正反対(裏表:表裏でないところが重要)であることを示しているのである。
従って、
(3)逆さま物質(反物質)が実在で、正さま物質(正物質)は逆さま物質(反物質)の不在概念に過ぎないことを示しているのである。
まさに、
この三つの真理に目覚めるために、われわれ人間の大人は善と悪がある人間社会を生きることになったのである。
従って、
超自然社会に辿り着く過程としての善と悪がある人間社会の存在意義があるわけで、人間社会に留まっていてはいけないのである。
ところが、
われわれ人間社会は、アダムとイブ以来、善と悪がある社会に留まり続けているのは、善と悪を超えることができないでいるからである。
なぜなら、
善を好いものとして追いかけ、悪を好くないものして避けてきたからである。
健康を好いものとして追いかけ、病気を好くないものとして避けてきたからである。
まさに、
善や健康と、悪と病気を正反対のものと捉えてきたからである。
従って、
これからは善=悪、健康=病気が常識という考え方にしなければならないのである。
まさに、
みんなが豊かな社会、すなわち、豊饒社会では、善=悪、健康=病気が常識という考え方に他ならないのである。
みんなが豊かな豊饒社会は清貧社会に他ならない、と第一部「みんなが豊かな社会こそ豊饒社会である」と論じ、第二部「清貧社会」では「みんなが豊かな社会とは清貧な社会であり」、第二部第十七章では「みんなが豊かな豊饒社会とは超自然社会」と導いてきた。
まさに、
豊饒社会=超自然社会。
言い換えれば、
豊饒=清貧の証明に他ならない。
なぜなら、
自然社会では、貧乏が実在だからである。
そうすると、
自然を超える超自然とは、真の豊かさ=清貧のことなのである。
逆に言えば、
富める者であるお金持ちとは、貪る欲である貪欲な者のことなのである。
まさに、
真の豊かさ=清貧のことなのであり、偽の豊かさ=貪欲のことなのである。
まさに、
言葉を駆使するわれわれ人間社会は、ミイラ取りがミイラになっていたのである。
まさに、
貧しさの貧、
と、
貪る貪、
を履き違えていたのである。
従って、
真の豊かな社会(豊饒社会)とは、貧と貪を超える社会に他ならないのである。
従って、
超自然社会とは、貧と貪を超える社会に他ならないのである。
なぜなら、
超えるとは、二つのことに関する論述だからである。
逆説的に言えば、
超えるとは、一つ(唯一)のことに関する論述ではないからである。
まさに、
一元論と三元論の間に必要悪としての二元論が、まさに文字通り必要なのである。
言い換えれば、
実在する始点と実在する終点の間に映像という円周が、まさに文字通り、映っているのである。
畢竟、
実在する貧しさ(自然社会)と実在する清貧(超自然社会)の間に、貪欲という人間社会が、まさに文字通り、漂っているのである。
まさに、
貧しさと清貧の間に、貪欲が漂っているのである。
まさに、
問題は、貪欲にあるのではなく、漂っている点にある。
ところが、
われわれ人間は、貧しさや清貧や貪欲を問題視しているのである。
だが、
本当の問題は、漂っていることにある。
言い換えれば、
本当の問題は、迷っていることにある。
なぜなら、
貧しさや清貧は実在するが、貪欲は単なる映像に過ぎないからである。
言い換えれば、
貧しさや清貧は、始点か終点という実在点だが、貪欲は円周という映像に過ぎないからである。
では、
この事実は一体何を示唆しているのだろうか?
まさに、
実在性とは静止性に他ならず、映像性とは運動性に他ならないのである。
ところが、
われわれ人間は、運動性が実在性と勘違いしているのである。
現に、
われわれ人間は、生きることを好いとし、死ぬことを好くないと思い込んでいる。
平たく言えば、
われわれ人間は、動くことを好いとし、動かなくなることを好くないと思い込んでいる。
まさに、
われわれ人間が、死など怖くないと、いくら嘯いても、動かなくなることに怯えていることが、何よりの証拠である。
だから、
貪欲の中で、漂っているのである。
逆に言えば、
貧しさや清貧の中でこそ、静止性が発揮されるのである。
言い換えれば、
貧しさや清貧の中でこそ、実在性が発揮されるのである。
平たく言えば、
貧しさや清貧の中でこそ、死を好いものと思えるようになるのである。
まさに、
貧しさや清貧の本来の意味が、ここにある。
貧しさや清貧の中でこそ、静止性が発揮されるのである。
言い換えれば、
貧しさや清貧の中でこそ、実在性が発揮されるのである。
平たく言えば、
貧しさや清貧の中でこそ、死を好いものと思えるようになるのである。
まさに、
貧しさや清貧の本来の意味が、ここにある。
ところが、
われわれ人間の大人だけが、死を悪いものと捉えて生きているのである。
言い換えれば、
われわれ人間の大人だけが、映像(幻想)の世界を生きているのである。
平たく言えば、
われわれ人間の大人だけが、運動の(流転する)世界を生きているのである。
どうやら、
われわれ人間の大人だけが、駆使してきた言葉に問題があることが、わかってきたようである。
先ず、
貧しさこそ豊かさの意味に他ならなかったことに気づくことである。
更に、
貧しさと清貧の狭間にある貪欲に振り回されないことである。
そうすると、
貧しさや清貧の中で生きることが、本当の豊かさであることが、わかってくるのである。
逆に言えば、
貪欲に振り回されなく生きることが大事なのである。

第二部(清貧社会)−おわり−