第十一章 誕生=必然 & 死=偶然

偶然性か?必然性か?などどうでもいいのである。
生か?死か?などどうでもいいのである。
まさに、
偶然か必然かの問題は、生か死かの問題と同じなのである。
現に、
生は両親の意思によって与えられる必然性を有しているのに対して、死は誰によっても与えられない偶然性を有している。
そして、
われわれは、いつの間にか、死を善くないものと捉え、死の不在概念に過ぎないはずの生を逆に善いものと捉えるようになったのである。
なぜなら、
生のはじめにある誕生は必然性を有しているから、制御可能であるのに対して、制御不可能な偶然性を有している死を避けたのである。
では、
人類はなぜ、制御不可能な偶然性を選ばず、制御可能な必然性を選んだのだろうか?
まさに、
人類の悪意が、文明社会の黎明期において生じていた証左である。
まさに、
旧約聖書の「創世記」における「カインとアベル」の物語が、人類の悪意を如実に表現しているのである。
なぜなら、
旧約聖書の中の神は、人類の祖先を善人のアベルではなく、悪人のカインにしたのだから。
神ともあろう者が悪人を人類の祖先にするというような不条理なことが罷り通っていいのだろうか?
どうやら、
こんな神を先ず疑ってかからなければならないのが道理だろう。
そして、
宗教の誕生とその存在なくして、神の概念など生じるべくもないのである。
まさに、
神の産みの親こそ宗教に他ならない証左である。
そして、
神は、不条理なことをするために生まれたのである。
だから、
人類の祖先であるアダムとイブは神の命令に背いて、エデンの園から追放されたのである。
だから、
アダムとイブの間から生まれたカインとアベルなのに、罪を冒したカインが、人類の祖先になったのである。
まさに、
神にはあるまじき不条理を神はしたのである。
まさに、
神の正体見たりの感は拭えないだろう。
まさに、
誕生は必然性、死は偶然性に他ならない証左である。