第五十九章 死期の知り方

死こそが唯一の実在であって、生は死の不在概念に過ぎない。
従って、よい生き方など求めても、所詮無いものねだりの土台無理な話であります。
病気が実在であって、健康は病気の不在概念に過ぎないのと同じであります。
癌やエイズといった病気は実在するが、何処を探しても見当たらない健康を追い求めているわたしたち。
実在するものとは普遍的な存在ですから、生まれた時から存在する。
従って、病気はわたしたちが生まれた時から死ぬまで存在するもので、完全に消滅させることは不可能ですから、わたしたちが出来ることは病気の程度を軽くする努力をすることだけで、病気の不在状態である健康など不可能なことであることを理解することです。
病気の観点を変えてみますと、癌やエイズの病原体も一つの存在物であり、わたしたち人間と同様に存在する権利を有している。
人間にとって邪魔な存在かも知れないが、自然の食物連鎖の法則の一環として存在しているのです。
牛や豚や野菜にとっては、人間は一番厄介な病原体である筈なのに、彼らは何一つ文句を言わないで人間に食べられているのです。
人間だけが、癌やエイズの病原体を厄介扱いしているのは不条理極まりない。
お互いにうまく共生することが病気の程度を軽くする方法であり、病気の程度の軽い状態を健康と捉えるべきです。
従って、生とは死の不在概念と捉えずに、死の程度の軽い状態と捉えるべきです。
拙著「夢の中の眠り]Volume (V)-Chapter900で「甲乙丙理論」というものを展開しました。
健康・病気という二元要因で捉えずに、病気の程度によって病気の甲乙丙三元要因と捉える。
健康を病気の甲状態、普通を病気の乙状態、病気を病気の丙状態。
病気の甲乙丙状態を繰り返すのが生きている証である。
従って、生・死を二元要因で捉えずに、死の程度によって死の甲乙丙三元要因と捉えるべきです。
死の程度とは死期(死季・四季)に他ならない。
生きているということは死期(死季・四季)の甲乙丙状態の繰り返しに他ならない。
自分の死期(死季・四季)が春なのか、夏なのか、秋なのか、冬なのか。
死期を知るとは、まさに、自己の四季を知ることに他ならないのです。
幕末の動乱期を30才の若さで死にながら、明治維新に大きな影響を及ぼした吉田松陰が、自己の一生を四季で喩え、30才の一生にも四季があり、四季は完結するから死ぬのであると看破しているのです。