第四十六章 苦の正体

他人を気にする相対的「生」を生きるから、他人を気にする相対的「死」を死ぬことになる。
相対的「生」とは二元論的生き方と言ってもいいでしょう。
相対的「死」とは二元論的死に方と言ってもいいでしょう。
つまり、貧・富問題、健康・病気問題、幸・不幸問題、善・悪問題、賢・愚問題、支配・被支配問題、強・弱問題、男・女問題を常に抱えて生きる、わたしたち人間の生き方であります。
“他人が豊かなのに比べて、自分は貧しいのだと苦しむ”
“他人が健康なのに比べて、自分は病気だと苦しむ”
“他人が幸福なのに比べて、自分は不幸だと苦しむ”
“他人が善人なのに比べて、自分は悪人だと苦しむ”
“他人が賢いのに比べて、自分は愚かだと苦しむ”
“他人が支配者であるのに比べて、自分は被支配者だと苦しむ”
“他人が強いのに比べて、自分は弱いのだと苦しむ”
“他人が男性であるのに比べて、自分は女性だと苦しむ”
相対的「生」であります。
そして、
“他人が生きているのに比べて、自分は死ぬのだと苦しむ”
相対的「死」であります。
サルトルが“他人が地獄”と主張した根拠がここにあります。
自分が不幸(地獄)感覚に陥るのは、他人との比較が原因にあるのです。
他人の存在が一切介入しない絶対的「生」を生きると、
“他人が・・・であるのに比べて、・・・だと苦しむ”が脱落して、“自分は・・”だけが残る。
“自分は貧乏”
“自分は病気”
“自分は不幸”
“自分は悪人”
“自分は愚か”
“自分は被支配者”
“自分は弱い”
“自分は女性”
絶対的「生」であります。
そして、
“自分は死ぬ”
絶対的「死」であります。
他人を気にしない絶対的「生」を生きると、他人を気にしない絶対的「死」を死ぬことができるのです。
他人を気にしない絶対的「生」、絶対的「死」には“苦”はないのです。