第四十二章 知識と知恵

わたしたち人間の一生が、四苦八苦の連続であり、悩みや苦、そして、死の恐怖に苛まれるのは、煩悩、つまり、欲望の所為だと宗教は主張してきました。
他の生き物にも本能欲があるのに、悩みや苦、そして、死の恐怖に苛まれることは彼らには無縁のようです。
彼らとわたしたち人間と一体何処が違うのか。
大脳皮質が古皮質と新皮質の二層に分かれているのが、わたしたち人間です。
大脳皮質が古皮質だけの一層になっているのが、他の生き物たちです。
魚類・鳥類・両生類・爬虫類・哺乳類といった違いはあっても、大脳の構造以外はみんな同じです。
つまり、知性の有無がその違いなのです。
霊長類とは大脳皮質が二層あるものを言う。
従って、人間と猿やチンパンジー、ゴリラとの違いは知性の程度の差だけです。
知性の有るものが、悩みや苦、そして、死の恐怖に苛まれる。
知性の無いものは、悩みや苦、そして、死の恐怖に苛まれない。
言い換えれば、知性が潜在能力を100%発揮できる全体感の生き方から、潜在能力の一部分しか発揮できない部分観の生き方に変えている張本人に他ならないのです。
煩悩に苛まれて悟れずに、悩みや苦、そして、死の恐怖に苛まれているのではないのです。
潜在能力を100%発揮できないで生きているから、悩みや苦、そして、死の恐怖に苛まれるのです。
お釈迦さんが長い苦行の末に悟ったことは、悟りとは何かを会得するものではなく、本来具わっていたものを思い出すことにあったのです。
つまり、潜在能力の発揮度のことを言っていたと解釈した方が適切であり、潜在能力の発揮度を阻害しているのが知性であるわけです。
まさに、知性は功罪両面を併せ持つ両刃の剣なのです。
わたしたち人間はそのことを理解せず、功的側面しか認めていないから、潜在能力を100%発揮できない生き方をし、挙句の果てに、悩みや苦、そして、死の恐怖に苛まれる四苦八苦の一生を送る羽目に陥っているのです。
知性の功的側面しか認めない知識偏重型の人間になるぐらいなら、いっそ知性自体無い他の生き物のような生き方の方がましです。
知性の功罪両面を認める体験重視型の人間になることで、知識を知恵に変貌させることができ、潜在能力を100%発揮できる生き方ができるのです。
知識の言葉は部分観のオーラルランゲージです。
知恵の言葉は全体感のボディーランゲージです。
現代人は、若者を大事にし、老人を軽視する知識偏重型に陥っているから、みんながこぞってお金を求めるという土台不可能な超拝金主義にはまってしまうのです。
昔の人は経験豊富な老人を大事にする体験重視型だったから、一部支配者だけが標榜する拝金主義にはまらずに、圧倒的多数の一般大衆だけが味わうことのできる清貧の生き方に徹することができたのです。
お金持ち、地位・名誉、権力といったこの世的成功を求める生き方には絶対味わうことのできないのが清貧の生き方です。
この世的成功者は必ず死の恐怖に苛まれる。
何故ならこの世の執着を抱えているからです。
清貧に生きた者は必ず死の喜びを味わえる。
何故ならこの世の執着を捨てているからです。