第三十二章 本質の問題

わたしたちが心と称している内なる囁きが、「想い」の正体であり、いわゆる「魂」や「霊」の正体です。
肉体が死んだ後も生き続けるだろうと錯覚し続けてきた、いわゆる「魂」や「霊」とは内なる囁きのことです。
では、内なる囁きは一体何処からやって来るのでしょうか。
その前に、わたしたち人間には二つのタイプがあることを認識しておくことが必要です。
人間は、内なる囁きに耳を貸すタイプと耳を貸さないタイプとに必ず二分される。
内なる囁きに耳を貸すタイプの人間は、唯心的な人間、有神(心)論の人間、信仰・宗教に惹かれ、精神論を重視する。
内なる囁きに耳を貸さないタイプの人間は、唯物的な人間、無(心)神論の人間、信仰・宗教のみならず精神論を一切拒否する。
どちらのタイプも所詮は表裏一体の同質のコインであることを理解すると、内なる囁きの正体がわかってきます。
内なる囁きに耳を貸すタイプも、耳を貸さないタイプも、内なる囁きの存在を認めていることに違いはなく、ただ耳を貸すか、貸さないかの違い、つまり、好き嫌いの問題に過ぎない。
従って、どちらのタイプも所詮は表裏一体の同質のコイン、つまり、二元論的であるわけです。
好きと嫌いは同質のコインの表と裏。
男と女は同質のコインの表と裏。
善と悪は同質のコインの表と裏。
強と弱は同質のコインの表と裏。
賢と愚は同質のコインの表と裏。
富と貧は同質のコインの表と裏。
幸福と不幸は同質のコインの表と裏。
天国と地獄は同質のコインの表と裏。
健康と病気は同質のコインの表と裏。
神と悪魔は同質のコインの表と裏。
そして、
生と死は同質のコインの表と裏。
つまり、これらの二つのタイプは所詮好き嫌いの問題に過ぎず、本質の問題には決して触れていないことを自覚していないのです。
では本質の問題とは何でしょうか。
内なる囁きの本質を理解しているかどうかの問題であり、内なる囁きに耳を貸すタイプも、耳を貸さないタイプも本質を理解していない点においては違いはありません。
冒頭に申しましたように、心と称している内なる囁きが、「想い」の正体であり、いわゆる「魂」や「霊」の正体です。
心(「想い」)とは、肉体の一部である五感が働いた結果生じる自我意識(エゴ)に他ならない。
五感とは自分つまり「内界」と、他つまり「外界」との境界線のことであり、五感(境界線)によって自他の区分けが為されているのです。
自他の区分けが為されることによって生じるのが自我意識(エゴ)に他なりません。
従って、自我意識(エゴ)とは、五感という所詮肉体の一部から生じたものであり、心臓や他の内臓も含めた肉体全体から生じたものではありません。
拙著「夢の中の眠り」で、生き物には必ず「意識」と「想い」があって、「意識」とは肉体全体から生じた内なる囁きであり、「想い」とは五感から生じた内なる囁きであると申しました。
内なる囁きに耳を貸すタイプも、耳を貸さないタイプも、内なる囁きの本質を理解していないのは、自我意識(エゴ)を本当の自分だと誤解している点にあり、所詮は肉体あっての物種であることをわかっていないのです。
わたしたちが心(「想い」)、つまり、「魂」や「霊」と称している内なる囁きは肉体あっての物種であり、肉体が死ねば雲散霧消する代物であることが本質の問題に他なりません。