第九章 成熟した自我意識(エゴ)

使命とは、部分観と全体観が合致したときにその姿をはじめて現わすわけです。
絶対一元論の一体感では使命はありません。
使命観であって、使命感ではないのです。
知性の知性たる所以は全体観にあって、部分観である間は使命の姿は観えません。
言い換えれば、成熟した自我意識(エゴ)こそが使命観に他ならない。
“自分が・・・”という自我意識(エゴ)こそが諸悪の根源であり、自他の区分けから生じる差別・不条理・戦争も結局の処は自我意識(エゴ)の為せる業であり、支配・被支配二層構造と世襲・相続の差別制度も自我意識(エゴ)の為せる業であることは確かでありますが、死の概念を一度知った(持った)わたしたち人間が、自我意識(エゴ)を消滅させよと言われてもこれも土台無理な話であります。
『今、ここ』を生き切れと言われてもなかなかできないわけです。
何故なら、『今』という時間軸と『ここ』という空間軸は交差していないからです。
空間という三次元世界の上に時間という四次元要因が君臨するという、アインシュタインの相対性理論は明らかに間違っているのです。
若しそうなら、わたしたち人間はみんな『今、ここ』を生き切ることができ、悟りを開くことができる筈です。
『今』という時間軸と『ここ』という空間軸は交差していないから、『今、ここ』を生き切ることができないのです。
『今、ここ』を生き切っている他の生き物には時間の概念がありません。
結局の処、
死の概念とは、時間の概念に他ならない。
死=時間と言い切ってもいいかもしれません。
『今』と『ここ』の関係が究極の問題であると言い切ってもいいかもしれません。
“位置と運動量は同時に確定できない”、つまり、“動いているものの位置は決定できないし、止まっているものの速度は決定できない”と言う、ハイゼンベルグの不確定性原理が言い当てているのかもしれません。
使命を知るとは悟りを開くことであり、生きている(動いている)限り、悟りは程度(速度=運動量)の問題であって、ゴール(位置)の問題ではないのです。
そのためには、成熟した自我意識(エゴ)を目差すことしかないのです。