第七章 死の形態

死をタブー視してきた人生。
自殺を罪悪視してきた人生。
この二つの罪意識は根が最も深い。
死の概念を持たないのが人間以外の生き物です。
“生も死もない”とする絶対一元論であります。
死は生に対立する要因だとするのがわたしたち人間の考え方です。
“生が好くて死が悪い”とする、好いとこ取りの相対一元論であります。
生と死は一枚のコインの裏表関係、つまり、補完関係にあるとする二元論の本質に気づくのが、わたしたち人間の進むべき次のステップです。
“生と死は同じで、死が本質であり、生は死の不在概念に過ぎない”とする、二元論の本質であります。
更に、“生と死を超える”、つまり、生死を一枚のコインとしか捉えず、表面の生や裏面の死を意識しないのが三元論であります。
そうしますと、生の実体と死の本質が見えてきて、死と自殺は実は一枚のコインに他ならなかったことに気づきます。
死とは自殺以外に無いのです。
死んだことがない、わたしたち生きている人間だけがそのことに気づいていないだけで、死んでいった人間はすべて死に際して気づかされて死んでいったのです。
輪廻転生説や死後の世界観はすべて騙りである証左でもあります。
“生きている者の気持ちは死んだ者にはわからないし、死んだ者の気持ちは生きている者にはわからない”のであります。
“生が好くて死が悪い”という好いとこ取りの相対一元論で生きているわたしたち人間は死んだ者の気持ちはわからないのに対し、死んだ者は生きたことと死んだことの両方を経験しているから、生きている者の気持ちも死んだ者の気持ちも両方わかっていて、生・死問題という一枚のコインの本質もわかっているが、残念ながら、死んだ者は生きているわたしたちに教えてくれない。
ところが、死んだ者の誰かが、わたしたち生きている者の誰かにだけ教えてくれることがあるらしく、逆に、わたしたち生きている者の誰かが生きながらにして、死んだ者の世界を訪問することができる結果、死んだ者の世界も知ることができるという宗教が、輪廻転生や死後の世界の考え方をまことしやかに人間の中に蔓延させ、誰もが死んだ者を弔う儀式を当然のごとく続けている。
他の生き物の世界にそんな儀式は一切ない。
どんな生き物でも自分が死ぬ時は、独りでひっそりと死んでゆく。
死とは自殺以外に無いのです。
“生も死もない”絶対一元論の他の生き物にとっての死とは自然死しかない。
“生と死は同じで、死が本質であり、生は死の不在概念に過ぎない”を理解し、更に、“生と死を超える”者にとっての死とは自殺以外に無いのです。