第五十九章 死を怖れる理由

わたしたち人間が常識と思っていたものが実は悉く錯覚だった。
その際たるものが、生・死の概念、つまり、生・死の間違った「考え方」であり、その結果、オス・メスの概念、善・悪の概念、強・弱の概念、賢・愚の概念、貧・富の概念、幸・不幸の概念、天国・地獄の概念、神・悪魔の概念、健康・病気の概念、支配・被支配の概念といった、すべて間違った「考え方」を持ってしまったわけです。
まさに、わたしたち人間とは、間違いだらけの「考え方」の生き物だった。
“人間は考える葦である”ではなく、“人間は間違って考える葦である”だったわけです。
唯一考える能力を持った生き物だと自慢してきた人間でありますが、その能力を悪用していただけに過ぎなかったのです。
その“つけ”が今こそ回ってきたのです。
この“つけ”を支払うのは、国家でもなく、社会でもなく、会社でもなく、家族でもなく、わたしたちひとり一人であります。
何故なら、国家も、社会も、会社も、家族も、組織といったものは実体がなく(実在しない)、実体ある(実在する)のは、わたしたちひとり一人だからです。
国家ごと死ぬわけではありません。
社会ごと死ぬわけではありません。
会社ごと死ぬわけではありません。
家族ごと死ぬわけではありません。
生まれて来た時はひとり一人で生まれて来たように、死ぬ時はひとり一人で死んで行くのです。
まさに、実在するのはひとり一人であり、他者はすべて映像である所以がここにあります。
逆に言えば、死ぬとは他者である映像が消滅することに他なりません。
実在する自分が消滅するのではなく、映像である他者が消滅するのが自分の死であるわけです。
映画館で映画を観ているのがひとり一人の人生であり、映画が終了したらスクリーンの映像が消滅して、ひとり一人は帰路に就く。
それがひとり一人の死であるのです。
ひとり一人が『今』という時間(虚時間)の汽車に乗り、窓外に観える『ここ』という景色を動いていると勘違いしている、つまり、過去・現在・未来という時間(実時間)と勘違いして、人生という旅をしているが、旅が終了して汽車から下りると、『今』という時間(虚時間)の汽車と自分が動いていただけで、『ここ』という景色はずっと止まっていたことに気づく。
それがひとり一人の死であるのです。
死に際して、はじめて錯覚の人生であったことに気づく。
死を怖れる理由がここにあるのです。