第五十六章 神・悪魔の概念

“神が好くて悪魔が悪い”という考え方が、わたしたち人間の錯覚だったのです。
神とは、一体何なのか。
ある人間の神の御加護の話が神・悪魔が表裏一体の関係であることを如実に表わしています。
“彼は友人と一緒に旅をしていた。
ある朝10時にその友人と一緒に車で出かける約束をしていた彼は、寝坊をして10時を過ぎてもホテルの部屋で寝ていた。
寝坊をした原因は、彼の腕時計が故障して止まっていたからだ。
その腕時計は、若くして亡くなった彼の兄の時計だった。
約束をすっぽかされ、仕方なく独りで出かけた友人の乗った車が事故に遭遇して、その友人は大怪我をした。
その報を聞いた彼は、亡き兄の霊が御加護してくれたのだと信じるようになった。”
しかし、事故に遭遇して大怪我をした友人やその家族たちにとって、彼を加護した彼の兄の霊は神どころか悪魔以外の何者でもありません。
全知全能の神ならば、その友人をも加護してくれる筈ではないかと思う筈です。
神(霊)の御加護など、所詮、個人の都合の産物、つまり、御利益に過ぎないのです。
他人にとっては悪魔でも、自分さえ好かったらいい神なのです。
病気から解放してくれるもの・貧乏から解放してくれるもの・悩みから解放してくれるもの・・・いわゆる四苦八苦から解放してくれるもの、つまり、「・・・から解放してくれるもの」を神と言うのです。
「・・・から解放してくれるもの」の「・・・」は悪魔のことです。
畢竟、神とは、実体などなく、悪魔の不在概念に過ぎません。
好い・悪いというのは、自我意識(エゴ)にとっての好い・悪いという判断であって、本当の自分、つまり、全体観にとっては好い・悪いといった判断など一切ないのです。
自我意識(エゴ)は実現能力を一切持っていません。
何故なら、自我意識(エゴ)とは、過去・現在・未来に「想い」を馳せる部分観に他ならないからです。
実現能力を持っているのは、『今、ここ』を生きる全体観であります。
『今、ここ』を生きる全体観には自我意識(エゴ)が介入する余地はありません。
従って、
成熟した自我意識(エゴ)で以って、『今、ここ』を断続的であっても生きる以外、わたしたち人間にとっての道はありません。
そのためには、
“悪魔が好くて神が悪い”とするコペルニクス的どんでん返しの考え方に変わらなければならないのです。
それがまさに、正しい概念(正しい「考え方」)に他なりません。
“神が好くて悪魔が悪い”という考え方こそが、神・悪魔の概念(神・悪魔の間違った知識=神・悪魔の間違った「考え方」)なのであります。
つまり、
“悪魔に縛られたくない”という悪魔の(不在)概念こそが、“神が好くて悪魔が悪い”という神・悪魔の概念(神・悪魔の間違った知識=神・悪魔の間違った「考え方」)に他ならないのであります。