第三十六章 現在と『今』

空間である昨日・今日・明日を時間と勘違いしているから、時間を空間の上位に置き、時間に支配される羽目に陥っているのです。
つまり、三次元空間の上に四次元時空間を置いているわけです。
空間を時間と勘違いしているのは、本来、静止しているものを運動しているものと捉える錯覚に他なりません。
汽車に乗っている自分が静止しているように観えて、窓外の光景が運動しているように観えるのと同じ錯覚であります。
汽車に乗っている自分が運動しているのであって、窓外の光景は静止しているのが実在であるのです。
運動している地球の上にいる自分が静止しているように観えて、天空が運動しているように観えるのと同じ錯覚であります。
運動している地球の上にいる自分が運動しているのであって、天空が静止しているのが実在であるのです。
まさに記憶を時間と勘違いしているのと同じであります。
記憶とは光景であり、音であり、匂いであり、味であり、肌触りであるのです。
ところがわたしたちは、記憶を過去、つまり、時間と捉えています。
だから、動画面映像を実在だと勘違いし、夢を現実と勘違いしているのです。
動いているものはすべて動画面映像に他ならない。
静止画フィルムが実在に他ならない。
静止画フィルムとは『今、ここ』のスナップ写真であり、一枚一枚のスナップ写真を重ねてパラパラ捲ることと、光を当てることで動画面映像が映されるわけで、現実と勘違いしている映画とは、まさに“運動の光と音の世界(宇宙)”である所以です。
昨日・今日・明日、つまり、過去・現在・未来を時間と捉えたことが間違いの元であったのです。
特に、今日、つまり、現在と『今』を同じだと思い込んでいるのが最大の錯覚であったのです。
今日、つまり、現在とは時間ではなく、窓外の光景に他ならないのです。
今日、つまり、現在と『今』とは量的違いではなく、質的違いであるのです。
死が実在であるのに、映像である生を実在と錯覚する原因がここにあるのです。
死とは映画の終わりに過ぎないのであります。