第二十六章 時間の無い世界・夢

わたしたち人間は、随所にある、つまり、自己に常に内在しているモノを否定し、自分たちが勝手に捏造したその不在概念に過ぎないモノを肯定している。
悩みや苦、そして、死の恐怖に苛まれる原因の分裂症状であります。
わたしたちが肯定している不在概念とは実在するモノの映像に他ならない。
メスが実在でオスは映像。
悪が実在で善は映像。
弱が実在で強は映像。
愚が実在で賢は映像。
貧が実在で富は映像。
不幸が実在で幸福は映像。
地獄が実在で天国は映像。
病気が実在で健康は映像。
悪魔が実在で神は映像。
被支配者が実在で支配者は映像。
そして、
死が実在で生は映像。
つまり、わたしたちの人生は映像に過ぎないのです。
この世に誕生した瞬間(とき)から、唯一のゴールである死に向かって行進する人生とは映像に過ぎないのです。
わたしたちは、死ぬために生まれてきたのであり、死ぬために生きているのであります。
わたしたちは、生きるために生まれてきたのではなく、生きた結果死ぬのでもありません。
そして、実在である死は随所にある。
まさに、宇宙の実在は“静止の暗闇と沈黙の絶対宇宙”であり、わたしたちが宇宙と信じ込んでいる137億光年の拡がりを持つ“運動の光と音の相対宇宙”はその映像に過ぎないのです。
まさに、静止が実在で、運動は映像に過ぎない。
まさに、静止は絶対静止で、運動は相対静止・運動に過ぎない。
まさに、死は絶対死で、生は相対死・生に過ぎない。
“死は随所にある”のです。
映像を現実だと勘違いし、実在の一瞥を夢と勘違いしているのであります。
夢である映画(動画面)の一瞥こそが静止画フィルムの一コマであります。
夢の中では時間が存在しない所以です。