第二十三章 強・弱問題は絵に描いた餅

強い者の気持ちは弱い者にはわからないし、弱い者の気持ちは強い者にはわからない。
では、わたしたちが強い者に憧れ、弱い者を忌み嫌うのは何故でしょうか。
“死んだ者は生きたことと死んだことの両方を経験しているから、生きている者の気持ちも死んだ者の気持ちも両方わかっているし、生・死問題という一枚のコインの本質もわかっている。”
わたしたちはこの考え方を支持しているから、死を忌み嫌っているだけで、実はそうではないことを前章で述べました。
そうであるなら、“弱い者は強い者と弱い者の両方を経験しているから、弱い者の気持ちも強い者の気持ちも両方わかっているし、強・弱問題という一枚のコインの本質もわかっている”という考え方が、弱い者を忌み嫌う原因であり、実はそうではないことになります。
結局の処、
強い者の気持ちは弱い者にはわからないし、弱い者の気持ちは強い者にはわからない。
そうしますと、強・弱問題という一枚のコインの本質が見事に観えてきます。
生まれた時から死ぬまで、強い者は強い者であり続け、弱い者は弱い者であり続けた場合に限って、強い者の気持ちは弱い者にはわからないし、弱い者の気持ちは強い者にはわからないのです。
強・弱問題という一枚のコインの本質は、強い者は生まれた時から死ぬまで強い者であり、弱い者も生まれた時から死ぬまで弱い者であるという点にあるのです。
では、強い者は生まれた時から死ぬまで無条件に強い者でいられるでしょうか。
自然と一体感で生きている他の生き物の世界では強い者と弱い者といった区分はなく、食う(殺す)・食われる(殺される)循環社会、つまり、生まれてから死ぬまで食物連鎖の法則が機能する社会である。
自然と一体感で生きていない人間の世界だけが食う(殺す)一方の非循環社会である、つまり、生まれてから死ぬまで食物連鎖の法則が機能しない社会である。
結局の処、循環社会とは自然との一体感であることに他ならず、非循環社会とは自然との一体感を失う、つまり、部分観であることに他なりません。
自然とは地球のことであります。
真の親である地球との一体感とは、真の親である地球の想いである重力を感じることです。
真の親である地球との一体感を失って、真の親である地球の想いである重力を感じることが出来なくなった人間だけが、生まれてから死ぬまで食う(殺す)一方の非循環社会を続け、挙句の果てに、食う(殺す)一方の死に至るから、死を怖れるのです。
知性偏重の現代社会に生きているわたしたちは、知性(知力)によって強い者になれると信じています。
この考え方は実は幻想に過ぎないのです。
強・弱問題という一枚のコインの本質は、真の親である地球の重力を感じることで地球との一体感を持つ他の生き物の社会は生まれた時から死ぬまで食う(殺す)・食われる(殺される)循環社会であり、真の親である地球の重力を感じることが出来ない部分観を持つ人間の社会だけが生まれた時から死ぬまで食う(殺す)一方の非循環社会であるという点にあるのです。
食う(殺す)・食われる(殺される)循環社会の他の生き物の気持ちは食う(殺す)一方の非循環社会の人間にはわからないし、食う(殺す)一方の非循環社会の人間の気持ちは食う(殺す)・食われる(殺される)循環社会の他の生き物にはわからない。
だから、他の生き物は死を知らないのに、人間だけが死を知り、死を怖れて生きているのです。
生まれてから死ぬまで食う(殺す)・食われる(殺される)循環社会なら、死の概念はない。
生まれてから死ぬまで食う(殺す)一方の非循環社会だから、死の概念を持つ。
死の概念を持ち、死を怖れて生きているわたしたち人間だけが、生まれてから死ぬまで食う(殺す)一方の非循環社会を続けるから人口が増え続けるのです。
結局の処、強・弱問題という一枚のコインは、生・死問題という一枚のコインが変形しただけに過ぎません。
死の問題を解決しない限り、強・弱問題など絵に描いた餅に過ぎません。