第二十章 善・悪問題は絵に描いた餅

善人の気持ちは悪人にはわからないし、悪人の気持ちは善人にはわからない。
では、わたしたちが善を求め、悪を忌み嫌うのは何故でしょうか。
“死んだ者は生きたことと死んだことの両方を経験しているから、生きている者の気持ちも死んだ者の気持ちも両方わかっているし、生・死問題という一枚のコインの本質もわかっている。”
わたしたちはこの考え方を支持しているから、死を忌み嫌っているだけで、実はそうではないことを前章で述べました。
そうであるなら、“悪人は善と悪の両方を経験しているから、悪人の気持ちも善人の気持ちも両方わかっているし、善・悪問題という一枚のコインの本質もわかっている”という考え方が、悪を忌み嫌う原因であり、実はそうではないことになります。
結局の処、
善人の気持ちは悪人にはわからないし、悪人の気持ちは善人にはわからない。
そうしますと、善・悪問題という一枚のコインの本質が見事に観えてきます。
生まれた時から死ぬまで、善人は善人であり続け、悪人は悪人であり続けた場合に限って、善人の気持ちは悪人にはわからないし、悪人の気持ちは善人にはわからないのです。
善・悪問題という一枚のコインの本質は、善人は生まれた時から死ぬまで善人であり、悪人も生まれた時から死ぬまで悪人であるという点にあるのです。
では、善人は生まれた時から死ぬまで無条件に善人でいられるでしょうか。
自然と一体感で生きている他の生き物には悪はありません、つまり、生まれてから死ぬまで善であり続ける。
自然と一体感で生きていない人間(若しくは人間社会に織り込まれているペット化した生き物も含む)だけに悪があります、つまり、生まれてから死ぬまで悪であり続ける。
結局の処、善とは自然との一体感であることに他ならず、悪とは自然との一体感を失う、つまり、部分観であることに他なりません。
自然とは地球のことであります。
真の親である地球との一体感とは、真の親である地球の想いである重力を感じることです。
真の親である地球との一体感を失って、真の親である地球の想いである重力を感じることが出来なくなった人間だけが、生まれてから死ぬまで悪であり続け、挙句の果てに、悪い(怖い、嫌な)死に至るのです。
唯物思想の科学偏重の現代社会に生きているわたしたちは、法律(戒め)を守ることによって善人になれると信じ、唯心(神)思想の宗教偏重の現代社会に生きているわたしたちは、宗教(信仰)によって善人になれると信じています。
この考え方は実は幻想に過ぎないのです。
善・悪問題という一枚のコインの本質は、真の親である地球の重力を感じることで地球との一体感を持つ他の生き物は生まれた時から死ぬまで善であり、真の親である地球の重力を感じることが出来ない部分観を持つ人間だけが生まれた時から死ぬまで悪であるという点にあるのです。
善である他の生き物の気持ちは悪である人間にはわからないし、悪である人間の気持ちは善である他の生き物にはわからない。
だから、他の生き物は死を知らないのに、人間だけが死を知り、死を怖れて生きているのです。
生まれてから死ぬまで善なら、死の概念はない。
生まれてから死ぬまで悪だから、死の概念を持つ。
死の概念を持ち、死を怖れて生きているわたしたち人間だけが、生まれてから死ぬまで悪であり続けるのです。
結局の処、善・悪問題という一枚のコインは、生・死問題という一枚のコインが変形しただけに過ぎません。
死の問題を解決しない限り、善・悪問題など絵に描いた餅に過ぎません。