第六十一章 束縛されない暮らし(7)

『今、ここ』を生きる

有機的で甘美な実像の他者と共有できる楽しい時間とは、過去も振り返らず、未来に想いを馳せることもない、『今、ここ』の『今』であります。
無機的で不条理な虚像の他者(組織)と共有する苦渋の時間とは、振り返る過去であり、取り越し苦労する未来であります。
『今、ここ』とは、時間である過去、現在、そして未来といった、日常生活における時間と空間が共存する概念世界ではありません。
つまり日常生活を超越した別世界であり、時間が流れる(厳密には時が支配する)中での日常生活空間とはまったく違った、固有の四次元世界の断面である唯一実在する三次元空間世界です。
したがって、『今、ここ』とは四次元時空間世界と三次元空間世界の交差点のことをいいます。
『今、ここ』を生きるということは、日常生活する自分など一切いないで生きるということです。
我々は、思考して日常生活を生きるという永年の習い性を持っている為に、思考しないで生きることに不安を覚え、何かしなければならないといった束縛感を感じ、それが不安な人生の根本原因となっています。
他の生き物は考えて生きているのではないのですが、人間は考えて生きていると思い込んでいる。
しかし人間も考えることで行動しているのではなく、感じることで行動しているのです。
考えが最初に起こったとしても、それを行動するためには感じなければ行動に移すことが出来ないのです。
すべての生き物は感じて生きているのに、人間だけが考えて生きていると思い込んでいる、この勘違いが束縛の原因であります。
生きているということは、『今、ここ』を生きている証です。
他の生き物たちはそれを素直に受けとめています。
人間だけが素直に受とめられずに、昨日や明日に生きようと無駄なあがきをして勝手に悩んでいるだけなのです。
しかし、普段考えているつもりの我々ですが、実は殆ど考えるという行為をしていません。
考えるという行為の本質は、自己の内面を観察する「内観」にあるのですが、我々が考えていると思っていることは、自己の外側を観察する「外観」をしているだけです。
外観をしているということは考えることではなく、連想しているということです。
外の景色の変化を受けて想いを巡らす主体は自分以外の他者(組織)にあるのに、それを自分の考えだと思っているのは甚だしい勘違いであります。
現代人が考えているというのは、内観ではなく外観、つまり他者(組織)の姿を観て自分に投影しており、「他人(組織)の目を気にした生き方」をしているのです。
自分では考えているつもりなのですが、実は連想しているだけで、外観という実在(実像)ではない映像(虚像)を気にしながら日々生きているのです。
実在(実像)とは、いついかなる場所であっても常に存在するものです。
それが自分であり、他者はいついかなる場所であっても常に存在するものではありません。
恋人や家族といった自分の愛する者であっても、所詮は他者であり、いついかなる場所でも自分と一緒に存在することはあり得ません。
そのことを如実に物語っているのが生死の問題で、独りで生まれ、独りで死んでゆくことです。
自分独りで生きているのに、その合間に出入りする他者を自分と同じ世界に存在すると勘違いするから、「他人が地獄」になるのです。
映画やテレビを観て一喜一憂するようなことと同じであり、少しでも早くそのことに気づいた人生を取り戻すことが、物質文明が発達した我々現代人には極めて重要なことなのです。
生きているということは、『今、ここ』の在り方です。
生きていると思っていることは『今、ここ』に対する考え方です。
生きていると自覚するには、『今、ここ』に対する在り方と考え方を一致させなければできません。
在り方と考え方が一致していることを本音といい、一致していないことを建前というのです。
本音とは、自分の欲望のままに生きることではなく、『今、ここ』を生きていることを自覚することです。
建前とは、『今、ここ』を生きていることを自覚しないで、欲望に振り回されて生きることです。
過ぎ去ったことや、未だ来ぬことを『今、ここ』に引き寄せようと、無理難題なことに想いを馳せることが欲望の正体であり、無理難題なこと自体が欲望なのです。
それは、我々が二元論の考え方に対する無知から、二元要因の幸・不幸、貧・富、善・悪などの、幸、富、善といった一方だけを受け入れ、不幸、貧、悪は拒否し、二元要因の好いとこ取りをしようとする無理難題なことを求めているからです。
在り方(本音)と考え方(建前)の一致した生き方は、虚像である他者(組織)を気にするようなことが自殺行為であることを教えてくれます。
束縛されない人生とは、『今、ここ』を生きることであり、『今、ここ』を生きるには、他者(組織)を実在(実像)と捉えている限り無理なことです。