第二十四章 資本主義・社会主義の相克と盛衰(4)

二つの世界大戦(2)

第一次世界大戦の戦後処理はベルサイユ講和条約に基づき行われました。
それはドイツに対する報復の意味合いが強く、後に禍根を残すことになります。
ドイツに莫大な賠償金を課す一方、従来の植民地を維持することが確認され、独立を許されたのはソ連封じこめの意味を持つ東欧諸国のみでした。
別途アメリカの提唱によって国際連盟が創設されましたが、肝心のアメリカが議会の反対によって加盟せず、その理想主義的な目標はすぐに骨抜きにされました。
従い、ベルサイユ体制とは反動であり、第一次大戦の原因となった問題を解決できず、世界政治に安定を齎すことは出来ませんでした。
アメリカは第一次大戦による被害をほとんど受けず、戦後、ヨーロッパの連合諸国のみならず、敗戦国のドイツにも債権をもつことで経済的にもその影響力を増した。
1920年代には自動車・鉄鋼産業が大幅に進歩し、世界の工場の役割をイギリスから引き受け、資本主義国の中枢となりました。
しかし、生産力の向上が供給超過を引き起こす一方で、蓄積された資本が金融・株式市場に流れた結果、日本のバブル崩壊と同じく突如株式市場が暴落し大恐慌が発生しました。
大恐慌は他の資本主義諸国にも波及し多くで経済が破綻しました。
イギリス・フランスなど植民地を持つ国家は、それらとの間で特恵関税を適用するなど経済をブロック化することで恐慌の影響を防ごうとしました。
ドイツ経済はアメリカに依存する割合が最も大きかったことにより、恐慌による打撃も一番大きいものであり、ドイツ国民の不満・閉塞感はナチスの台頭を促しました。
大恐慌の痛手から回復するため、アメリカのニューディール政策に代表されるような自由主義経済の伝統から一部乖離した、様々な規制を加える修正資本主義経済政策が導入され、部分的には成功をおさめます。
一方ソビエトでは、計画経済の下、5ヶ年計画によって特に工業化が目覚しい成果を挙げました。
こうした経済の動きは、資本主義国家の市民、特に知識人層に社会主義に対する好印象を与えるに至ります。
そして社会主義国家建設による民族解放を目指す勢力に、ソ連の成功は大いに勇気を与えただけでなく、自ら信じるところが間違っていないという確信を多くの運動者に与え、その拡大に長く寄与していくことになります。
その間、ドイツで政権をとったナチスは、社会主義的とも言える統制経済政策を推進します。
軍需産業を興し、アウトバーン建設に代表される大規模公共事業を実施することで失業者を救済し、大恐慌でどん底になったドイツ経済を回復させ、国民の圧倒的な支持を得ることに成功します。
しかしながら、こうした積極的経済運営の下、国力を増強するためには外へ外へとその影響力を行使できる領域(領土)を求めざるを得ません。
ナチスの対外領土獲得の意図は次第に露骨なものとなり、周辺国(英仏露)を刺激しました。
ここに至って、資本主義(自由主義)対ファシズム(全体主義)、社会主義対ファシズムという対立軸が出来上がります。
途中ソビエトとドイツの不可侵条約締結などのイレギュラーなケースはあったものの、基本的にはこの対立軸に沿って第二次世界大戦は戦われました。
一つ見逃してならないのは、ドイツが初期の段階では圧倒的に優位に立ったこと、そしてソビエトは緒戦では敗北を重ねたものの、そのドイツの攻勢を連合軍がノルマンディーに上陸する1944年秋までは実質一国で支えていたということです。
ドイツは戦争準備にあたって、国家総動員体制とでも言うべきシステムを構築していましたし、ソビエトも一旦戦端が開かれれば迅速に国力を戦争に注入する体制を整えました。
これは、いわゆる社会主義経済体制というものが、戦争のような非常時に対応するのに優れていることを如実に示しています。
さらに踏み込めば、全体主義と社会主義というのは、イデオロギーは正反対ですが、実はコインの裏表のような関係を露呈していたのです。