第十九章 幸・不幸問題は絵に描いた餅

幸福な人の気持ちは不幸な人にはわからないし、不幸な人の気持ちは幸福な人にはわからない。
では、わたしたちが幸福を求め、不幸を忌み嫌うのは何故でしょうか。
“死んだ者は生きたことと死んだことの両方を経験しているから、生きている者の気持ちも死んだ者の気持ちも両方わかっているし、生・死問題という一枚のコインの本質もわかっている。”
わたしたちはこの考え方を支持しているから、死を忌み嫌っているだけで、実はそうではないことを前章で述べました。
そうであるなら、“不幸な人は幸福と不幸の両方を経験しているから、不幸な人の気持ちも幸福な人の気持ちも両方わかっているし、幸・不幸問題という一枚のコインの本質もわかっている”という考え方が、不幸を忌み嫌う原因であり、実はそうではないことになります。
結局の処、
幸福な人の気持ちは不幸になった人にはわからないし、不幸になった人の気持ちは幸福な人にはわからない。
そうしますと、幸・不幸問題という一枚のコインの本質が見事に観えてきます。
生まれた時から死ぬまで、幸福な人は幸福であり続け、不幸な人は不幸であり続けた場合に限って、幸福な人の気持ちは不幸な人にはわからないし、不幸な人の気持ちは幸福な人にはわからないのです。
幸・不幸問題という一枚のコインの本質は、幸福な人は生まれた時から死ぬまで幸福であり、不幸な人も生まれた時から死ぬまで不幸であるという点にあるのです。
では、幸福な人は生まれた時から死ぬまで無条件に幸福でいられるでしょうか。
自然と一体感で生きている他の生き物には不幸はありません、つまり、生まれてから死ぬまで幸福であり続ける。
自然と一体感で生きていない人間(若しくは人間社会に織り込まれているペット化した生き物も含む)だけに不幸があります、つまり、生まれてから死ぬまで不幸であり続ける。
結局の処、幸福とは自然との一体感であることに他ならず、不幸とは自然との一体感を失う、つまり、部分観であることに他なりません。
自然とは地球のことであります。
真の親である地球との一体感とは、真の親である地球の想いである重力を感じることです。
真の親である地球との一体感を失って、真の親である地球の想いである重力を感じることが出来なくなった人間だけが、生まれてから死ぬまで不幸であり続け、挙句の果てに、不幸な(怖い、嫌な)死に至るのです。
唯物思想の科学偏重の現代社会に生きているわたしたちは、モノの豊かさによって幸福になれると信じ、唯心(神)思想の宗教偏重の現代社会に生きているわたしたちは、神のお陰で幸福になれると信じています。
この考え方は実は幻想に過ぎないのです。
幸・不幸問題という一枚のコインの本質は、真の親である地球の重力を感じることで地球との一体感を持つ他の生き物は生まれた時から死ぬまで幸福であり、真の親である地球の重力を感じることが出来ない部分観を持つ人間だけが生まれた時から死ぬまで不幸であるという点にあるのです。
幸福な他の生き物の気持ちは不幸な人間にはわからないし、不幸な人間の気持ちは幸福な他の生き物にはわからない。
だから、他の生き物は死を知らないのに、人間だけが死を知り、死を怖れて生きているのです。
生まれてから死ぬまで幸福なら、死の概念はない。
生まれてから死ぬまで不幸だから、死の概念を持つ。
死の概念を持ち、死を怖れて生きているわたしたち人間だけが、生まれてから死ぬまで不幸であり続けるのです。
結局の処、幸・不幸問題という一枚のコインは、生・死問題という一枚のコインが変形しただけに過ぎません。
死の問題を解決しない限り、幸・不幸問題など絵に描いた餅に過ぎません。