第十三章 夢の途中

産みの親を二人の父母とする考え方が、人間社会だけに支配・被支配二層構造と世襲・相続の差別制度を生み、差別・不条理・戦争の横行する社会をつくり、挙句の果てに、真の親である地球にまで宣戦布告する傲慢極まりない生き物に成り果ててしまった。
科学を生んだ知力はさしずめ地球と戦争をする武器と言えるでしょう。
嘗ては地球上の極めて弱き生き物だった人類が、弱いゆえに二本足になったことが、功罪両面を生む結果となったのです。
知力という武器が人類を地上最強にまで押し上げた功的側面の一方で、悩みや苦、そして、死の恐怖に苛まれるという罪的側面をも有する生き物になったのです。
知性と苦悩が表裏一体の関係にあることを人類は見逃し続けてきた。
2400年も前に釈迦が開いた仏教では、煩悩、つまり、欲望が苦悩の原因だと喝破し、ちょうど同じ頃の古代ギリシャではソクラテスやプラトンが、人間は錯覚の生き物だと、やはり喝破しているのにも拘わらず、現代に至るまで、わたしたち人間は依然として悩みや苦、そして、死の恐怖から解放されるどころか、差別・不条理・戦争がますます横行する社会にしてしまっているのは何故でしょうか。
知性と苦悩が表裏一体の関係にあることを人類が見逃し続けてきたからに他なりません。
釈迦にしても、ソクラテスやプラトンにしても、所詮は、知性で知っただけに過ぎず、知性そのものが元凶であることに気づいていなかったのではないでしょうか。
ではそのことに気づいていた人間はいなかったのかと言うと、そうではありません。
中国の老子や、ギリシャのディオゲネスは気づいていたように思われます。
だから、彼らは表舞台には決して出ず、独りでひっそりと暮らす生き方を選んだのです。
真の人生は独りだけの世界であって、他人の存在が介入するいわゆる人生は映像に過ぎない。
もっと厳密に言えば、いわゆる人生という芝居は、いわゆる夢という背景と、いわゆる現実という実舞台で構成された芝居の舞台(映像)に過ぎず、他人の介在はすべて芝居の舞台(映像)の中での出来事であり、芝居の舞台(映像)のある劇場の席で鑑賞している独りの自分だけの世界が真の人生であるということに気づくことです。
そのことに気づけば、老子やディオゲネスのように独りでひっそりと暮らす生き方が最上であることがわかる筈です。
いくら釈迦が口酸っぱく知性で教えても、仏教という宗教になったら最後、もう無意味です。
いくらソクラテスやプラトンが思い込み(ドクサ)だと教えても、哲学になったら最後、もう無意味です。
独りでひっそりと暮らす生き方をするしかない。
考えてみれば当たり前のことですが、独りで生まれて来て、独りで死んで逝くのが人生の始まりと終わりなのですから、夢の途中も独りで生きてゆくしかないのです。
本物の人生の鍵はそこにあるのです。