第一章 よく生きること、よく死ぬこと

わたしたち人間は、死をよくないことと思っている嫌いがあります。
中には、自分は死をそんなに悪いこととは思っていないと主張される方がいる筈だと思うから、“嫌いがある”と言ったまでのことです。
実は、人間みんなが死をよくないことだと思っているのです。
お釈迦さんの有名な逸話が、その証明をしてくれる筈です。
お釈迦さんは28歳になるまで、生き物が死ぬことを知らなかった。
“天上天下唯我独尊!”と言って生まれてきた方ですから、ちょっと他の人間とは違っていたのです。
父君は一国の国王で、お釈迦さんはその後を継ぐ身で生まれてきたのですが、国王の相談役だった祭司が、とんでもないことを言い出した。
“この方は大変な知性の持ち主で、王家を継がないでしょう!”
驚いた父の国王は、祭司に訊きました。
“どうしたら、この子がわたしの後継者になってくれるのか?”
祭司は答えました。
“この方に死を教えてはいけません。いかなる生き物の死さえ教えてはいけません”
爾来、お釈迦さんは28歳になるまで、生き物が死ぬことを知らずに生きてきました。
ある日、一人で外に出たお釈迦さんの前を馬車が通っていった。
お釈迦さんは咄嗟に馬車の御者に尋ねた。
お釈迦さんの運命の分岐点でした。
“馬車に何を載せているんだ?”
“皇太子にはいかなる生き物の死も見せてはならない!”という国王の緘口令を知らなかった御者が答えました。
“死人を載せて運んでいるんだい!”
“死人?”
お釈迦さんは何のことかわかりません。
御者は笑いながら言いました。
“生きているものはみんな必ず死ぬんだい!そんなことも、お前さんは知らないのかい!”
晴天の霹靂の思いでこの言葉を受け止めたお釈迦さんは、そのまま宮殿に帰らず出家したのです。
“生きているものは必ず死ぬのなら、一体何のために生きているんだ?”
仏教を開いたお釈迦さんの修行のはじまりでした。
お釈迦さんは28歳まで、生きているものは必ず死ぬことを知らなかったのですが、わたしたち凡夫はみんないつの頃からか千差万別でも、死ぬことを知っています。
それにも拘わらず、わたしたちは生きる意味もわからずに生き、“幸せになりたい!”、“金持ちになりたい!”、“偉い人になりたい!”・・・と貪欲に生きています。
お釈迦さんが聞けば、“お前たちは阿呆か!必ず死ぬことの意義も知らずに、一寸先が闇の生きることの意義を知ることができる筈がないだろう!”と呆れるでしょう。
わたしたちは、死ぬことの意義も知らずに、死を怖れているのです。
わたしたちは、死を怖れて生きていながら、幸せな生き方を渇望しているのです。
そんな馬鹿なことが可能な筈がない。
最後の結論である死がよくなくて、途中の生がよい筈がない。
死とは何なのか。
生とは何なのか。
よく生きたいなら、よく死ねることが必要十分条件です。
ところが、死は生の最後にやって来る。
必要十分条件では駄目なのです。
時を超える必要十分条件でないと、よく生きることができないのです。
時を超えるとは、過去・現在・未来に生きるのではなく、『今、ここ』に生きることです。
『今、ここ』を死ぬことが、よく死ぬことに他なりません。
詰まるところ、常に全力を尽くして生き切ることと言ってもいいでしょう。
よく生きることは、よく死ぬことに繋がるのです。