第二章  躾の大切さ

健吾が持って生まれた最大の特徴が、いかなることにも縛られないという意志力であったことは、半年間の幼稚園でいかんなく発揮された。
一見、我が侭のように見えるが、一般の子供の我が侭の本質は、他人のものを、我がものにしたいという貪欲さであるのに対して、健吾のものは、自己の本質を主張する意志力から来るものであり、それは決して我がままではなく。大人になればなるほど欠落していく大事なものを失うまいとする人間本来の精神の健全性の発露である。
人間の本質は、五才ぐらいで普通成長は止まってしまう。その止まった時点で、どれだけの器の容量を持っているかが、大人になった時の器量の差として出てくる。
健吾の器の容量が大きくなっていることを示す出来事が、ある日起こった。
健吾のすぐ上の兄である正平が、近所の悪がき達にいじめられ、大きな泣き声を上げて家に帰ってきた。
正平は健吾よりも四才年上の小学四年の兄だが、性格はおとなしく、協調性があって、いつもたくさんの友達と一緒になって遊んでいた。
「誰にいじめられたんだ、ショウ兄ちゃん?」と聞いた健吾の表情を、母の春子は一生忘れなかった。
まるで、兄と弟が逆になっている。
泣きながら正平は健吾の迫力ある表情に圧倒されて答えた。
正平から名前を聞いた健吾は、家を飛び出して行った。
春子は、それを止めようとしたが、父の栄一は春子に言った。
「どうするか、放っておくんだ」
そして栄一は春子と泣く正平を連れて、健吾のあとをついて行った。
家から二百メートルほど離れたところで、健吾は、自分よりもはるかに大きな三人の少年を相手に殴る、蹴るのやりたい放題でわめいている。
「三人で一人のショウ兄ちゃんをいじめるのは、卑怯じゃんか!僕一人でお前たちをやっつけてやる!」
九才の三人の子供たちが、五才の一人の子供にやりたい放題のことをされても、何の抵抗もしないで泣きわめいている。
父の栄一は、その光景を見て、
「春子、お前の言っていたことが正しかったよ」と満足した様子で、先に家に帰ってしまった。
残された春子も、本当なら健吾を止めなければならないのだが、その光景を見ながら妙に笑わずにいられなかった。
正平は、両親の態度に訳が分からず、横で健吾の勇敢さに驚いているばかりだった。
その時以来、父・栄一の健吾に対する態度が大きく変わった。
「どうしたのですか?健吾を見直したのですか?」
春子は、栄一と結婚して、もう二十四年になるが、今でも栄一に対して敬語を使う。
別に怖い存在ではないのだが、亡くなった栄一の父が厳格な性格で、垣内家に嫁いできた時に言われたことを守っている。
「たとえ、夫婦といえども、妻は夫を尊敬する気持ちがなければいかん。これからできてくる子供たちの躾のために、夫に対して敬語を使いなさい。そうすれば必ず、よい子供に育つ」
栄一の父から言われた春子は、その言葉を守ってきた。そして栄一もそういう春子を、口には出さないが認めていた。
栄一は、子供とほとんど言葉を交わさない父で、子供たちも、世間の親と違って、自分たちの父親が一緒に遊んでくれることは無いものだと思っていた。
「お父さんは、あなたたちとあまり話をしないし、遊んでもくれないけれど、立派な人だということだけは忘れないようにね」
春子は子供たちに言い続けてきた。
アメリカナイズされた悪い面だけが表れているのが、日本の社会の最近の風潮だ。
世間の親は、子供に対して厳格な躾をしないことを、戦後の間違った自由の堅持だとはき違えた結果、言葉の使い方もまったく理解していない子供たちをつくってしまった。
栄一も春子も、そういった世間の親たちの無責任さに失望していた。
健吾が、兄の正平がいじめられたのを仕返しにいった事件は、世間的には批判されるかもしれないが、栄一・春子夫婦には、喜ばしい出来事だった。
三人の兄たちは、父親の栄一に対して、反感にも似たものをずっと持っていた。
それは母親に対する想いの反動であったのだろう。
栄一は、ひたすら自分の人生を一所懸命生きてきた。しかも、自分を厳しく律してきた。
誰よりも一番朝早く起きて、仕事とは関係ない、毎日の慣習をこなしてきた。その慣習には休日はなかった。一年三百六十五日休暇なしで、いかなる状況でも継続されていた。
健吾の最初の記憶にも、栄一の毎日の慣習が、きっちり刻印されていた。
その慣習が、立派なものかどうかを判断する見識など無かったが、子供たちの潜在意識の奥深いところにきっちりと刻印されていた。
健吾は、その刻印されているものを五才ながらも認識していたから、父親に対する畏敬の気持ちを持っていた。
だが他の兄たちは、父親の自分本位の生き方を、勝手な我が侭だと取っていた。
母親の春子の栄一に対する態度が、余りにもへりくだった態度と誤解し、極端な亭主関白だと決め込んでいた。
栄一は、存在感を子供に見せることが、父親としての役目だと思っていた。
一般の家庭の父親のように、一緒に遊んだりするというスキンシップは絶対にせず、常に一定の距離を子供たちとの間に置いていた。
実は、父親としての責任を果たす上で、このやり方ほど難しいことはない。
子供からは、理解してもらえない。理解してもらえたとしても、それは子供たち自身が人の親になってからで、その時に自分がまだ生きているか分からない。
「父親というのは、そういうものなんだ」
立派な生きざまをすることを常に心がけていなければならない。このことを、日々実践することは至難の技である。
健吾は、頭ではまだ理解できていなかったが、直感で父親の生きざまの難しさを知っていたから、畏敬の念を持っていた。
そして、それが健吾自身の生きざまとして投影されていた。
三人の兄たちは、ただこの世的に、優しい父親のイメージをつくり、それに合っていない栄一に不満と反感を持っていた。
そういう兄弟に対して、栄一もつい健吾に期待をするようになっていたが、今回の一件で、ますます健吾に期するものを持ち始めたようであった。
春子は、そういう栄一の気持ちを察して、先に手を打った。
「あなた、今回の一件で、健吾に過大な期待をしないようにして下さい。あの子は、束縛されることを何よりも嫌います。今回の幼稚園の件でもそうです。協調性が無いと言われればそれまでですが、わたしは変な協調性のある子供よりも、自分の納得しないことは絶対にしないという、あの子の性格を大事にしてやりたいのです。あの子の協調性の無さが、単なる身勝手なものから来ているなら、正平の件で、あんな行動をしなかったと思います。そうでしょう? 普通の子供だったら、あんな無謀なことをしないで、嫌に賢ぶって、見て見ぬ振りをしているんではないですか?」
健吾のあの勇猛な姿の残像に、栄一はしばらく酔いしれていたが、春子の毅然とした態度に目を覚ました。
「そうだな。お前の言う通りだと、俺も思っている」
と言った栄一に、春子は笑いながら言った。
「本当にそう思っておられますか?何か、ここしばらく、様子がおかしかったですよ」
栄一は、頭を抱えながら笑っていた。
だが栄一がそういう態度をするのは、春子の前だけだった。
幼稚園を退園させられた健吾だったが、実は毎日、服部先生のところに遊びに行っていた。
園児が帰る頃を見計って、幼稚園の門の前で健吾が待っていると、園児を見送るために服部先生が出て来る。
「服部先生!」
と健吾が叫ぶと、
「健吾くんじゃないの。どうしたの?」
「先生に会いたくて来たんだ」健吾が素直に言うと、
「かわいそうに!」と言って敦子は涙ぐんだ。
「健吾くん!ちょうど今ごろに、毎日いらっしゃい。そうしたら、先生、自由になれるから」
そして、それから毎日、健吾と服部先生のデートが始まった。
敦子は教育大学を卒業した時に、高校の先生の資格を持っていたが、幼い頃から小さな子供が好きで、保母さんになるのが夢だったので、敢えて幼稚園の先生になった。
敦子の母は、敦子が小学三年生の時に、皮膚癌で三十五才の若さで亡くなっていた。
そしてその後、敦子の父親は再婚もせずに敦子を育てた。
母のいない、父一人、娘一人の家庭で育ったせいか、賑やかな家庭に憧れていた。
しかし、父に対しては尊敬と感謝の気持ちでいっぱいだった。
敦子が大学を卒業して、幼稚園の先生になったとき、社会人になった敦子を見て感無量になって泣いた父の顔は、一生忘れないだろうと思った。
そういった環境で育った敦子だけに、子供の気持ちが痛いほどに分かった。
特に健吾のような子供を放っておくことは出来なかった。
また敦子は、学生時代から戦争反対運動に参加していた。
それは、敦子の母が皮膚癌になった原因が、広島の被爆であったからだ。
「健吾ちゃんは、優しいお母さんがいて、いいわね」と服部先生が言うのを聞いて、
「先生のお母さんはいないの?」と健吾が敦子に言った。
敦子は健吾に母のことを話した。
戦争ということが、どういうことなのか、まだはっきり理解出来ない健吾だったが、原爆という恐ろしいものが原因で、服部先生のお母さんが死んだことを知った健吾は大きなショックを受けた。
死ぬという言葉すらはっきりとは理解していなかっただけに、人間が人間を殺すことがあり、その大きいものが戦争だと知ったとき、生まれて初めて、死の恐怖感が健吾の心に生まれた。
それ以来、健吾は変わった。
怖いものを知った初めての経験であった。
毎晩、寝る前に、自分の衣類をきっちりとたたんでベッドの枕下に置くようになった。
「どうしたの、何かあったの?」
と母の春子が聞いても健吾は答えられなかった。自分でも理由が分からなかった。
ただ、そうしないと死の恐怖に押し潰されそうに思ったからだった。