第五章  楽しい試験

試験内容がやっと決まった。
今までの試験のイメージとはまったく違ったもので、いわば昔小学校や中学校でやったIQテストに極めて近いものになった。
何でも差別廃止が優先されてしまった現代社会では、IQテストのような、個人の先天的能力を数値で示すのは差別の典型であった。
IQテストは、普段の勉強の成果などまったく関係ない結果を出す。知能検査と言われていたように、検査なのだ。
戦後の教育制度は、アメリカによって制定されたと言われている。
しかし良く考えてみると、アメリカの影響下にあったのは、せいぜい一九五〇年代までで、一九六四年に東京オリンピックが開催された頃には、一部を除いて、ほぼ自主的な政策をとれる時代になっていた。
現代のような極端な差別廃止論は、アメリカが狙った戦後の日本人づくりとはまったく無縁のものであることをしっかりと認識しておかなければ間違った判断をしてしまう。
アメリカが狙った新日本人とは、白人社会以外で近代工業社会の構築に成功した唯一の国家を潰し、二度と欧米白人社会に対抗するような国家を造らせない国民づくりであった。
要するに、白人に楯突く有色人種の撲滅が最大の狙いだった。
敢えて植民地政策を捨てたのも、決して人道主義からではなく、彼らの戦略なのだ。
彼らの発想は、実に戦略的であり、およそ情緒が入る余地などまったく無い、合理的発想が真骨頂である。実践に即した考えと言っていいだろう。
白人世界を相手に戦争した日本人を研究した結果、有色人種でありながら、日本人は極めて唯物的な民族であることを彼らは発見した。
有色人種は、有色である体質からして情緒的なのが生理学的にも判明していた。
有色か白色かの絶対的区分けなど無いのであって、色素の程度の差だけで、黒色、褐色、黄色、と区分けされるのに、白人だけはまったくカテゴリーが違うのもおかしな話である。
アングロサクソンとゲルマンではやはり色素の違いは多少ある。ましてやラテン系ならもっと違う。
欧米社会の原点はローマ帝国であるが、当時のローマ人はイタリア系ラテン民族であって、アングロサクソンは最北端に住む野蛮なノルマン海賊民族であった。
そしてローマ帝国が西と東に別れ、首都がローマの西ローマ帝国が先に滅びた結果、ラテン系から東ローマを支配するゲルマン系へと変化して行ったのである。ローマ帝国には海賊であったアングロサクソンの名残など一滴もない。
地球の最北端に住み、太陽の恩恵が極めて少なかったゆえ、色素の欠乏した荒々しい性格の欠色人種となった。
色素欠乏は凶暴性を惹き起こす。戦いを好む性格の荒さが、時代背景とマッチして産業革命を起こし、近代世界の覇者となって、自分たちの都合のいい歴史を作ってしまったのが真相である。
メラニン色素が多いほど有色度が増す。そしてメラニン色素が多い程、より情緒的になる。
この生理学的根拠をよく認識しておくべきだ。
戦後のアメリカ指導教育は、まさに白人思想の原点である実践的教育であったから、IQテストがずっと小学校や中学校で実施されていた。
それが、アメリカの締め付けが緩くなるにつれて、頭をもたげて来たのが冷戦のもう一方の雄、ソ連の共産主義で、共産主義の赤色で染められた日教組なるプラスチック人間たちが、差別廃止の教育制度を作っていったのが実態である。
そういう観点からすれば、現代日本の府抜け教育制度も、冷戦の落とし子であるとも言える。
どちらにも良い面もあれば悪い面もあるが、今の教育は共産主義の悪い面が出た結果であると言えるから、やはり振り子を逆方向に振る必要がある。
それが実践教育であろう。これもまたアメリカのように極端に行くと、また違った歪んだ子供を作ることになる。
今回の試験内容は、IQテスト的な要素を入れながらも基礎知識も織り込んだ、受験する子供たちにとって楽しい試験内容になっていた。
試験結果が出た。
二百五十人余の五年生の男女からトップ五人ずつを選ぶ。しかも成績結果をトップからビリまで公表した。
健吾がトップ5に入ることは予想されていたが、予想もしなかったことが起きたのだ。
太一と浩がその中に入っていたのだ。
特に、太一が八百三十一点を獲得し、二位の健吾に百点以上の差をつけての断然トップだったことだ。
千点が満点の五教科で、IQテストも含まれていた。
IQテストは、本来満点などはないのだが、二百点を超えるような大天才はいないという前提条件で二百点満点にしていた。
そのIQテストで太一が二百十一点という驚異的な結果を出したのだ。
当然満点の二百点ということになったのだが、先生たちは信じられなかった。
過去の世界の大天才は数多くいるが、アインシュタインでも百八十点台だった。
ニュートンが二百点近くあり、一九六〇年代の韓国のソウル大学の教授夫妻の間に生まれた小学生が二百点を超したことがある。
その小学生は日本にも来て、小学生でありながら微分積分の問題を簡単に解答していた。
超英才教育をしていたらしいが、太一の場合は、そんなかけらもない、ただの小学生だったから、みんな驚いた。
何か太一が細工をしたのではないかと穿った見方をする先生や父兄が騒ぎだしたのだ。
太一は、へらへら笑っていて気にしていなかったが、周りの者が神経質になり、特に健吾と浩は怒り狂った。
「太一が細工するような奴だと思うのか!」
浩は、クラスでみんなに喚いて訴えた。
五年生の生徒たちは、みんな太一のことを疑ってはいなかった。普段の太一の言動から、何かピカッと輝くものを感じていたからだ。
工藤先生や川端先生も、まったく疑っていなかった。
結局、本人のことを良く知らないで、噂や印象だけで判断していた先生や父兄が疑ったのだ。
人間同士のいさかいや相克は、ほとんど誤解やミスジャッジから生まれる。
しかし、太一は自信満々で言い放った。
「そんなに疑うなら、みんな見ている前で、もう一度テストすればいいじゃんか」
太一を良く知っている連中は、「そんな必要ない!」と反対したが、疑った連中が再試験を主張し、太一が受けて立った。
五年D組の教室に太一独りだけが座り、まわりに大人たちが立って観ていた。
前回のテストでは、淡々とテストを楽しんでいた太一だったが、今回は意地になっていたのだろう。みんなの前で必死にテストに取り組んだ。
テストが終わった時には、太一も、大人たちも、ため息をつく程疲れていた。
「まったく、正々堂々としたテストだったと思います」
川端先生が、みんなに言った。
疑っていた先生や父兄も、さすがに同意した。
「問題は前と同じ結果が出るかだよ」
父兄の一人が呟いた。
「それほど時間がかかりませんので、この場で採点します。結果が出るまで、この場で、お待ち下さい」
川端先生は、明らかに他の大人たちに挑戦的だった。
「金子先生。わたしたちも手伝って採点しましょう。あなたが疑った先生方の代表ですから」
工藤先生が、金子先生をひっぱり出した。
三人で採点をしている間、太一はへらへら笑っていたが、他の大人たちは緊張していた。
金子先生が真っ青な顔になっていくのを見て、教室の中のみならず、健吾たちが見ていた廊下も騒然としてきた。
「結果が出ましたので、発表します。金子先生から発表して下さい」
川端先生に促されて、顔面蒼白の金子先生が発表した。
「谷山太一君のIQテスト結果は二百三十一点でした」
ただへらへら笑っていた太一も、その瞬間キリッと引き締まった顔に変わった。
洗足小学校対南平台小学校の学力対抗試合に参加する男女トップ5が発表された。
男子一位 谷山太一  八百三十一点
男子二位 垣内健吾  七百十一点
男子三位 石井崇   六百八十五点
男子四位 渡辺勉   六百六十七点
男子五位 岩田浩   六百六十六点

女子一位 上村恵津子 七百十点
女子二位 川村艶子  七百九点
女子三位 高田敏子  六百三十二点
女子四位 池田美沙  六百二十二点
女子五位 大野佳代  六百五点

健吾の仲間五人が十人の中に全員入っていた。
もともと健吾と恵津子の学力の優秀さは、全員が納得していたし、他の生徒たちも、それなりに予想していたものだった。
教育内容が実践的になっても、もともと優秀な生徒はそれなりの結果を出す証明をしたことは無視出来ない。
金子先生を筆頭に主張していたことも、証明されたとも言える。
ただ今回のテスト結果が示すものは非常に意義深いものであった。
それが太一、浩、佳代の成績だった。
三人のそれまでの評価は平均よりも遥か下で、ビリに近い評価をされていたことである。
それがトップ5に入っていたことは何を意味しているか、試験発表後、校長先生が職員会議を開いて結果検討会をした。
検討会で出た結論は全員一致するものだった。
「知識と経験のバランスが最重要」ということだった。
これは子供のみならず大人にも言えることである。
日本の教育は知識の取得重視の偏ったやり方で、戦後教育の特徴であることが浮き彫りにされた。
入学試験制度が、それに拍車をかけた。
その結果、良い大学、良い高校の定義が記憶力中心の知識偏重少年が優秀で、そういった生徒の多い学校が、良い大学、良い高校だと決めつけ、入学試験も、知識・記憶力を査定する内容のものとなった。
知識の取得・記憶を多くするには、出来るだけ多く時間を割く努力をする必要がある。しかし人間は本来怠惰なものだから、そこで出来るだけ少ない時間で要領よく知識の取得・記憶が出来る技法を編み出そうとする。
進学校がその始まりで、神戸の甲北中学・高校がその代表校であった。
そして、甲北中学・高校を真似る学校がその後全国に雨後の竹の子のように増えていった。
当然、そういった進学校に入るためにまた競争原理が働き、そこに入る為の予備校や塾の存在価値が生まれた。
甲北中学・高校が設立された時は、平凡な学校であり入学する生徒は、学力よりも私立だから授業料が高いのでお金持ちの子がほとんどで、金さえあれば誰でも入学出来る学校だった。
戦後の日本の学校の特徴は、全般的に貧しい家庭が多かったから、お金持ちは、自分たちが特別であることを示威するために、子供を私立学校に行かせた。
一方、一般家庭の子供は公立の学校に行くのが常識であった。
公立に行く子供たちが圧倒的に多かったから、優秀な生徒も公立学校に多かった。
都立、府立、県立高校から、国立大学に行くのが常識だった。
「清貧が優秀」であった時代だ。
それを覆したのが甲北中学・高校だ。
関西にある甲北高校が東京大学合格者数で日本一になったのだ。
それまで東京大学に進学するトップ校は都立日比谷高校であり、以下都立高校で占められていた。
京都大学に進学するトップ校は大阪府立北野高校を筆頭に府立、県立高校が占めていた。
そこに地域性が顕れていた。それを甲北高校が破壊した罪は大きい。
地方分権から中央集権が学校にも顕れたのだ。
それまでは、東京大学に入れる学力があっても、関西にいる子供たちは京都大学に行った。
大学の東西横綱が東京大学と京都大学だったからだ。
その理由は、国の方針だったからである。
当時の文部省が全国国立大学に供与する予算総額の半分が東京大学に、四分の一が京都大学に行っていたからだ。残りの四分の一で他の国立大学に分配されるものだから差がつくのも当たり前だ。
そこに金の力で殴り込みを掛けたのが甲北高校だった。
それ以来、「清貧が優秀」の考え方から「裕福が優秀」の考え方に変わっていった。
唯物・拝金主義国家日本の誕生の原点がここにある。
今や、東京大学には裕福な家庭の子供でないと行けないようになってしまい、清貧の意味が完全に忘れ去られてしまった国になった。
他人の痛みが分かる清貧な青年ではなく、苦労を知らない能天気な青年が東京大学を出て高級官僚になる。これでは国が頽廃するのは当然である。
洗足小学校の新しい挑戦は、そういう点で大きな意義を持っていたのだ。