第一章  太一の変身

額に怪我をして家に帰った太一は、兄の浩と勇次から事情を聞かれた。
健吾や岩田浩と喧嘩をしたと答えたが、彼等には通用しなかった。
母親は、「子供同士の喧嘩だから仕方ないわね」とさっぱりしていたが、二人は見抜いていた。
「おい、太一。お前の怪我は子供同士の喧嘩では無理だ。相手は大人だ。どうしたんだ、ええおい!」
今は真面目な職に就いている浩だが、暴走族のリーダーをやってきたから、凄んだ時の迫力は大したものだ。
「ほんとに、健吾や浩と喧嘩したんだよう!」
最後は泣きながら言う太一に、兄の浩は静かに言った。
「お前、先生に殴られたんだろう?嘘言ってもすぐに分かるさ」
ギクッとした表情に変わった太一の目を見ながら浩は笑って言った。
「お前がいつもハニワ、ハニワと言ってる先生だろう?ええ、そうなんだろう?」
太一は観念して「うん」と言った。
「だけど、工藤先生が悪いんじゃないよ。僕が悪かったんだから」
横で聞いていた勇次がびっくりした様子で、「浩兄ちゃん、いまこいつ何て言った?自分のこと僕って言ったよ。どうなったんだ!」
と叫ぶように太一に向かって言った。
浩も驚いたようだったが、太一に優しく話し始めた。
「工藤先生は、俺が小学六年生の頃の担任の先生だったんだ。お前と同じで腕白だった俺をずっと心配して気にかけてくれて、今でも工藤先生の家によく遊びに行ってる間柄だ。あの先生だったら、お前を殴りかねないと思ってた」
兄の浩にそこまで話をされては、太一も正直に言わざるを得なかった。
太一が事の仔細を説明すると、
「それは、お前のためにも健吾や浩のためにも、良い経験だったな。それで工藤先生は、まだ気にしているのか?」
「うん、大分気にしてたようだけど」
兄の浩は、考えた末に工藤先生の家に電話をした。
「もしもし。工藤ですが」
元気のない声が受話器の向こうから聞こえてきたので、浩は無理やり大きな声で話した。
「工藤先生!谷山浩です」
一瞬、黙っていた工藤先生だったが、口を開いた。
「浩君。太一君の件では、誠にすまないことをした。この責任はきちんと取るよ」
そう言って黙ってしまった先生は泣いているようだった。
「先生、僕は何も太一の件で抗議するために電話したのではありません。返って礼を言いたかったから電話をしたんです。最近の学校の先生は悪い生徒でも折檻する勇気のある人がいない中で、工藤先生のような人がいてくれて太一や垣内、岩田は幸せな子供ですよ。これからもどんどん折檻してやってください。・・・・・」
横で聞いていた太一は、ものすごく感激し、その日以来完全に変わった。
五年生の一学期が始まって、三ヶ月が過ぎた。
夏休みが真近に迫って、洗足小学校の新しい制度に基づく試験が行われた。
試験は四年生から六年生の上級生だけであるが、実践的な試験にするために、一学期から、授業の内容も、今までとは大きく違ったものになっていた。
英語の授業が一年生から採用され、三年生までは会話の授業だけだが、四年生からは読み書きの授業も組み込まれた。また算数という教科がなくなり、基礎数学という名前に変わり、数学の歴史や何故数学という学問が生まれたのかを教える教科となった。従来の算数は計算科と変わった。
まさしく実生活に密着した勉強を子供の時から教えようというのが狙いだ。
国語や歴史も、日常生活に関連した中で教えていく方法を採るやり方で、いわゆるOJT方式だから勉強というよりも、むしろ修練といったイメージが強くなっていった。
その結果、驚くべき変化が表れた。
従来のような実践的でない授業をして、その結果を試験で出そうとしていた時の成績の良い生徒がまったく予想も出来ないような悪い結果を出し、今まで話にならないような成績だった生徒が素晴らしい結果を出したのである。
それまで高を括っていた生徒や、この制度に懐疑的だった先生が、思いもかけない結果に驚愕するのだった。
校長の部屋に呼ばれた五年D組の川端先生に、喜色満面の表情の校長が聞いた。
「川端先生、谷山太一君が変わったらしいですね。態度も変わったが、成績も驚くべき結果を出したようですね」
川端先生は、どちらかと言うと、この制度導入に反対の意見だったので、校長に呼ばれたのだが、太一の大きな変化に驚嘆した川端先生は、既にこの方式を認めていたのだ。
「ええ、その通りです。谷山君は頭のいい子だったのに、授業がつまらないからいい成績を出さなかったのです。授業が面白くなった途端に目の色が変わってきたのです。
わたくしも、あの生徒に教えられました。子供は子供なりに考えているのでしょうね。授業を受身的に捉えていた生徒が、今まで成績が良かった。ところが積極的に授業に取り組まないといい成績が出せない授業内容にすると、成績の良かった生徒は、まったく良い結果が出せないのです。一方、授業が面白くない時は、まったく興味を持たなかった生徒が、面白く感じただけで積極的になり、良い結果も出すようになりました。谷山君がその代表格ですが、他の生徒たちにも同じ現象が顕著に出ています。わたし自身驚いています」
満足そうに聞いていた校長は、PTA会長の上村筆一に来てもらって、隣の部屋で会話を聞かしていた。
「上村会長さん。どうぞ入ってください」
校長に促されて筆一が部屋に入って来た。
「川端先生。この制度の発案者は実は上村さんだったのです」
と言って筆一を紹介した。
そこで筆一は驚くような話をした。
「はじめまして。上村です」
川端先生は、岩田浩と西本二朗との問題が起きた時、警察まで学校に来て調査をした際に上村とは面識があった。
「前に一度お目にかかっております」
思い出した筆一は、「ああ!どうも失礼いたしました。恵津子が四年生の時にお世話になりました」
と言って頭を下げた。
「その上村恵津子君のことで、お父さんが今日来られたので、あなたをお呼びしたのです」
要領を得ない川端先生は首をかしげて言った。
「それなら担任の工藤先生がいいのでは?」
「もちろん、工藤先生にも来て頂いてます」
校長は、席を立って部屋のドアーを開けに行くと、そこには工藤先生が立っていた。
「どうぞ、工藤先生。お入り下さい」
校長がドアーを開けて言った。
「上村恵津子君は工藤先生のところの生徒さんですね」
校長は工藤先生に聞いた。
「ええ、そうです」
「川端先生、上村恵津子君は四年生の時はどうでしたか?」
尋問を受けているように感じた川端先生だったが、自分の教育の考え方が間違っていたことを認めていたので、正直に答えた。
「あれだけ、成績の良かった生徒が、実は去年の二学期から急に成績が落ちたので、何かあったのかと気にかけていたのです。本人はいたって元気だったのですが」
夏休みのキャンプで父親の筆一に大きな精神的変化があり、それまで親に縛られていた恵津子の心にも大きな変化が起きたのが原因だった。
「それが五年生になったら、再び成績が戻ってきたのです。工藤先生そうですね?」
工藤先生が頷いた。
それを受けて筆一が話し始めた。
「本当に恥ずかしい話ですが、やはりPTA会長をしているということから肩に力が入っていたのでしょうか、娘に勉強を無理強いしていたのです。ところが去年の夏休みのキャンプで目から鱗が落ちまして、本人の自由裁量に任せるようにしたのです。
そうしたら、成績がどんどん落ちていくので、正直なところはらはらしていたのです。もう少しで元のもくあみになるところでしたが、五年になって授業制度が変わって、また目の色が変わって勉強しだしたのです。本人に聞くと、好きでやっているから、前みたいに苦痛じゃないと言うんです。まったく驚きました」
横から工藤先生が、「うん、うん」と頷きながら、「わたしは、特別何かしてあげたわけではないんですが、本人が言うには、本当に学ぶということを知って嬉しいと言っておりました」
川端先生は、素直に感動して、みんなに向かって言った。
「わたしの頭が固かったのです。今やっと分かりました。みなさん、よい教えをありがとうございました」
そして深々と頭を下げた。その床に雫が落ちていた。