第九章  男同士の話

筆一は、そのまま太一の家に向かった。
母子家庭で、母親が働いて多くの子供たちを育てていることを聞いていただけに、浩の家との大きなギャップを感じるだろうと思うと、またまた憂鬱になるのだった。
大田区は東京23区の中でも大きな区で、特にお金持ち層が多いところである。
高級住宅地が点在する中に、都営住宅の小さな家が建ち並ぶのも、この区の特徴だ。
皇居を中心にある千代田区が官庁や大企業のオフィス街とするなら、そこへ通う人たちのベッドタウンが大田区と世田谷区だったのが、オリンピック前までの東京の町だった。
それが、高度経済成長で人口が急増し郊外にニュータウンができてからは区内の高級住宅地と変貌していった典型的な町が千束の辺りだった。
太一の家は昔の一軒屋の都営住宅で小さな家に小さな庭があり、垣根のような入り口があってそこから家の玄関に入る。
ブザーも無く、玄関の戸を開けた筆一は大きな声で、「おじゃまします、どなたかいらっしゃいませんか」と言った。
日曜日なので、働いている母親もいるだろうと思ったのだが返事がない。
もう一度、更に大きな声で叫ぶように言うと、
「あんた誰だ!何の用だ?」
大きな体をした青年が後ろで立って無愛想に言った。
「あのう、谷山太一君のお宅でしょうか?」
「そうだ。また太一何かしでかしたのか?」
苦笑いをしながら不敵な表情をする青年に、筆一は尋ねた。
「お母さんはいらっしゃいませんか?」
「仕事に行ってるよ」
「まともな口のきき方も知らないのか」と内心カッと来た筆一だったが、相手がまだ青年だからと思って我慢した。
「恵津子ちゃんちのお父ちゃんだ!」
太一の声だと分かった筆一は、急に安心して後ろを振り返った。
「やあ、太一君。お母さんはいないのかい?」
筆一が言った途端に、先ほどの青年が、「仕事に行ってるから、いないと言っただろう!」怒鳴るように言った。
「何だよう、浩兄ちゃん。恵津子ちゃんのお父ちゃんに乱暴したら、俺が許さないぞ!」
太一が浩と言う青年の胸を押して怖い顔をしたら、その青年は急に顔の表情が柔らかくなって、「分かったよ!お前が怒ると手が付けられないからな」と笑いながら言った。「ごめんよ、おじさん。母は日曜日も仕事に行って留守なんだ。俺は太一の兄で浩と言うんだ。何か用事かい、まあ汚いところだけど上がってよ」
太一に後ろから押されて筆一は家の中に上がり、浩、太一と話をした。
太一には五人の兄がいて、長男は既に結婚して独立している。
次男が浩で、二十才で運送会社のトラックの運転手をしている。
太一には、他に二人の兄がいて、太一のすぐ上が勇次と言って中学二年生。
その上が猛(たけし)という、手の付けられない兄で、十八才なのに暴走族の仲間に入って家にも滅多に帰ってこないらしい。
浩も暴走族だったが、太一が京都に行った時に急に変わって、今の仕事に就いたのだ。
「俺の影響で猛は、今でもあっちこっちで暴れて警察に追われているんだ。俺のせいなんだ」
徐々に胸襟を開き始めた浩は、実は家族想いの優しい青年だったことが、筆一は分かったのだ。
「さっきのキャンプの話なんだが、浩君もお母さんと一緒に来ないか?」
筆一に誘われた浩は、嬉しそうな顔をして、「俺みたいな者が、行っていいのかなあ」頭を掻いたら、横から太一が、「浩兄ちゃん。一緒に行こうよ」と飛び上がって喜んでいる。
「浩君。お母さんに君から伝えてくれないか?」
「分かりました。絶対に行くように俺、いや僕から説得します」
「浩君。丁寧に喋ろうと思えば喋れるじゃないか。君は本当はいい青年だよ」
誉められた経験が無かった浩は、実に素直な清清しい表情になって、「そうですね。僕でもやろうと思えばやれますよね。太一、お前も少し喋り方を変えろよ!」
「うん」太一も素直に返事した。
「こういう男同士で話しするのは、いいなあ!」筆一は大きな声で叫びたい衝動に駆られて言った。
横で、浩と太一も大笑いしていた。
岩田浩の父親の武男、谷山太一の兄の浩。
今まで生きてきた自分の世界にはいなかった人間との出会いは筆一には新鮮というより衝撃であった。
岩田浩は照れ性が故の腕白少年。
岩田武男は真摯に生きる偉大な事業家。
谷山太一は子供と大人のいい面を持つ本当の優しい少年。
谷山浩は修羅場を覗き、そこから抜けてきた青年。
それぞれが年齢を超えた真実を共有している。
それに比べて、自分のこれまでの人生は、表面だけとりつくろった虚飾の世界で生きてきたという後悔が一気に噴出したのだ。
後悔には違いないが、まだ生きている間に気づいたことは幸いだと思えた。
また年齢を超えた新しい人生の仲間ができた喜びもあった。
出かける時は何となく憂鬱だったのだが、今は爽快な気分である。
「後は大野佳代ちゃんの家だ。大野さんがいるかどうか確かめてからにした方がいいだろう」
筆一は車から大野家に電話をした。
「もしもし、大野ですが」
佳代の声だった。
「もしもし、佳代ちゃん。上村恵津子のお父さんだけど、今日はお父さんいる?」
佳代は、すぐにキャンプのことだと思った。
明るい声を出して、「はい、います。お父さんに代わりますか?」
「わざわざ出てもらうことないよ。今から伺いたいんだけど都合がいいか、お父さんに聞いてくれないか?」
「はい、分かりました。ちょっと待っててください」
佳代が走っていく音が電話から聞こえた。
「もしもし。どうぞお越しください、とお父さんが言っています」
「ありがとう、佳代ちゃん」と言って電話を切って大野家の方へハンドルをきった筆一は、こんな清清しい一日は今までに一度も経験したことがなかった。
脱サラをして独立した時の苦労。そして苦労が報われて自分の会社が一人前になったと自信を持った時の喜びは一生忘れない。
だがそれは所詮生きている間の出来事で死んでしまえば、まさに夢のまた夢だ。
しかし、今日の喜びは全く異質なもので、死んでもあの世へ持って行けそうな喜びだった。
「いらっしゃい。病院以来ですね」
大野武吉が玄関の外で待っていて迎えてくれた。
旧友に再会したような気分で、キャンプの用件など言わなくても通じている二人だった。
「久しぶりに、我々も子供たちと一緒に子供時代に戻りましょう」
武吉が粋な言葉を吐いてくれた。
筆一の心に大激震が起きたような一日だった。
筆一は、最後に電話で栄一に事の詳細を報告すると、
「わたしはちょっと上村さんのことを誤解していたようです。すみませんでした」
栄一は心の底から筆一に謝罪した。
「いや、誤解ではありません。わたしが今日変わったのです」
二人は電話で大笑いして話を続けていた。
健吾と恵津子は、電話をしている二人を眺めながら、お互いに相手のことを考えていた。