第八章  一皮剥けた健吾

自然に手が恵津子に差し伸ばされた感触を、健吾はその日一日噛み締めていた。
恵津子が、上目づかいの恥ずかし気な表情を健吾にしたのは一年ぶりだった。
健吾の手にそっと恐そうに自分の手を載せた恵津子が久しぶりに見せた笑顔が、健吾は一番好きだった。
柔らかい女の子の手の感触を初めて知った健吾は興奮して、家に帰ってもぼっとしていた。
父の栄一が帰って来て、リビングルームのソファーで寝そべっている健吾の様子を見て春子に尋ねた。
「春子。健吾に、今日何かあったのか?」
「さあ、はっきりしたことは知りませんが、夏休みに太一君、佳代ちゃん、上村さんとキャンプに行く、と言っていました。それで嬉しいんではないですか」
「ほう!PTA会長の上村さんのお嬢さんも一緒にか?一時期、仲が良くなかったのでは?」
西本二朗が岩田浩に乱暴を働いて、栄一が病院に駆けつけた時に父親と一緒に来た恵津子を見た栄一は、
「この子が健吾の好きな恵津子ちゃんか。根は明るそうだが、何か影がありそうな雰囲気を漂わせている」
と思ったことを思い出した。
あの日、病院の帰り道で栄一は大野武吉に聞いた。
「PTA会長をしておられる上村さんをよくご存知ですか?」
急に栄一から聞かれた武吉はびっくりした様子で栄一の顔を見た。
その武吉の表情が、あまりにも仰天していたのを栄一は思い出していた。
「あの時、大野さんは何も言わなかった。しかし何か深い訳がありそうだった。あの女の子の表情に影を感じたのは、たしかその時だったなあ」
栄一はぼっとソファーに横になっている健吾の様子を見ながら考えていた。
「ああ!お父さん、お帰りなさい。僕、この夏休みに奥多摩にキャンプに行きたいんだけど、行っていい?」
栄一がリビングルームに立っていることに気づいた健吾が、ソファーから立ち上がって栄一に言った。
「そうだな。まだお前たちは小学生だから大人がいないと無理だ。誰か一緒に行く大人がいるかね?」
健吾の目を覗き込むように栄一は言ってみた。
自分たちだけで行くつもりだった健吾は、がつんっと石で殴られたような気がして下を向いて黙ってしまった。
健吾がどんな対応をするか、興味津々でいる栄一に、急に顔を上げて健吾は明るい表情で言った。
「お父さんが連れて行ってよ。太一の家には車がないしお父さんもいない。佳代ちゃんちもそうだし・・・」
「上村恵津子ちゃんのお父さんは、どうなんだろうかね?」
栄一が聞くと、健吾は冷静な表情で頷いて言った。
「そうだね。恵津子ちゃんのお父さんはPTAの会長さんだし。僕、恵津子ちゃんに電話してみるよ」
この返事を聞いた栄一は、すぐに答えた。
「いいよ、健吾。お父さんが連れて行ってあげよう」
しかし健吾は、嬉しそうな顔もせずに、静かに言った。
「恵津子ちゃんのお父さんにも聞いてみるから、それで駄目なら・・・」
と言って健吾は恵津子の家に電話をしに部屋を出ていった。
その様子を見て栄一は、「ううん!」と唸った。
「一枚皮が剥けたようだ」
電話を掛けに行った健吾が、
「お父さん、恵津子ちゃんのお父さんが電話代わって欲しいって言ってるよ」
リビングルームに戻ってきて栄一に言った。
「もしもし、垣内ですが」
「上村ですが。病院以来ご無沙汰しています。いま健吾君から恵津子に電話を頂きまして、夏休みにキャンプに行く計画があるらしく、わたしにも同行して欲しいと言われました」
栄一は恐縮して、
「はい、その件ならご心配なさらないでください。わたしが同行いたしますから」と返事をすると、
「いえ、是非ともわたしも同行させて欲しいと思いまして。そこでご相談なんですが、谷山君や大野君、岩田君のご両親にも声をかけて家族も参加してキャンプに行くという案はいかがでしょうか?」
恵津子の父はPTA会長をしているから、そんな風な発想になるのかと、栄一は最初は否定的な想いを持ったが、横にいた健吾が栄一の腕を引っ張って、「そうしようよ、お父さん」と言うのを聞いて、恵津子の父に聞いてみた。
「うちの息子は、それを望んでいるようですし、わたしも異存ありませんが、谷山君、大野君や岩田君のご両親の意向も聞いてみた方がいいのではないでしょうか?」
「もちろん、その通りです。岩田君は大怪我をしたあとだし、大野さんは忙しい身の方だし、谷山君は大家族で大変でしょうから。もしあなたが了解してくださるなら、わたしからみなさんに声をかけてみたいと思いますが、よろしいでしょうか?」
栄一と恵津子の父はほぼ同じ年齢で、事業家でもあるが、栄一は家庭を大事にするが、それ以上の子供の世界には顔を出さない主義でやってきた。
一方、恵津子の家は教育家庭で両親ともに子供の教育に熱心だ。だからPTAの会長もやっている。
「同じ年代で、事業をやっていても、これだけ考えが違うものだ」と栄一は浩が怪我をした際、病院で会った恵津子の父を見て思った。
栄一の会社はコンピュータのソフト開発をする業種だが、上村は商社を経営している。中堅の評判のいい商社だが、最近の情報化時代到来で商社の存在価値がなくなって厳しい状況に立たされているようだ。
製造業は、こつこつ良い製品を世に出していく地味な仕事だが、商社は人が商品だけにおもて面が大事な仕事だ。だから必然派手な雰囲気を出さないと仕事にならない。
恵津子の父は創始者で、一代で中堅の総合商社まで築きあげたやり手であった。
同じ事業家でも生い立ちが違うと、考え方もまったく違ってくる。
「わたしは依存ありません」
と答えた栄一だった。しかし、どちらかと言うと、大袈裟になることを嫌うタイプの栄一にとっては歓迎する提案ではなかったが、仕方なかった。
「それでは、わたしがこれからみなさんと相談してみることにします」
電話の向こうから活き活きとした声が聞こえてきた。
「よろしくお願いします」と言って栄一が電話を切った。
横にいた健吾は、「やった!大キャンプだ」と叫んでリビングルームを飛び出して行った。
その姿を見た栄一は苦笑いしていた。
恵津子の父親と電話で話した後、栄一はふと気づいたことがあったので健吾に聞いてみた。
「岩田君は、恵津子ちゃんと、あのう?何て名前だったかな?大阪から転校してきて、すぐにどこか消えてしまった家族・・・」
健吾にとっては思い出したくない名前だったが、栄一が聞くので仕方なく答えた。
「西本でしょう。西本二朗というんだよ」
「ああ、そうそう。彼の件で、恵津子ちゃんは岩田君に暴力を振るわれたのだろう。それなのに岩田君も今度のキャンプに一緒でいいのかね?」
栄一は首をかしげていた。
健吾は、浩が西本二朗に大怪我をさせられて病院に行ったときのことを思い出していた。
父親と一緒に来た恵津子は、浩が二朗に復讐され大怪我をしたことを父親から聞いて、自分も病院に連れていって欲しいと父親に頼んだのだ。
そして、いままでの事情を説明した。
この事件のそもそもの原因に、自分も関係していると思った恵津子は自責の念に駆られ、居ても立ってもいられなくなり、泣きながら父親に話した。
事情を呑み込めた父親は、二朗も商社マンの教育家庭に育った子供であることに、妙に引っかかった。
創始者であっても、自分も商社マンであることには変わりない。そして子供の教育に熱心であることも同じだ。
恵津子は父親に訴えた。
「パパ。どうしてパパはわたしのことに熱心なの?健吾君や太一君のところのパパは・・・。このパパと呼ぶようになったのも、いままで何にも思わなかったけど、健吾君は、お父さんって呼んでいるし、太一君ところはお父さんがいないけど、ママのことを、おかあちゃんって呼んでいるの。わたし、それがうらやましくて。どうしてパパやママと呼ばせるようにしたの?パパのお仕事に関係しているの?だって西本二朗君の家っておかしいのよ。家の中では、おとうちゃん、おかあちゃんって呼んでいるのに、外ではパパ、ママと言うので、どうして?て聞くと、おとうちゃんとおかあちゃんから、ずっとそのように言われてきたので、もう慣れてしまった、て言うの。わたし、わけがわからなくて。パパの仕事と同じ仕事なんでしょう?パパの仕事は、そんなに変な仕事なの?」
恵津子の純真な気持ちでは、まったく理解できないことだったのだ。
いままで商社マンという職業に誇りを持ってきた恵津子の父親は頭をハンマーでガツンと殴られたような気分になった。だが商社機能は、所詮情報の媒体でしか在り得ない虚業であることが、IT情報化時代に入って再確認され商社不要論まで出ている始末で、構造不況業種であることを身にしみて感じていただけに堪えた。
「人間が商品であるから、価値の高い人間に育てることが重要だと思ってきたが、とんだ間違いだった」と後悔していた。
それが、今回の大キャンプの提案の動機であったのだが、コンピユータソフトの会社といえども製造業を営む栄一は、そういう商社に嫌悪感を抱いていただけに、恵津子の父親のことを誤解していたのだ。
恵津子の子供としての純真さが、父親の精神構造をも変える力を持っていたのだ。
恵津子の父親は、上村筆一(ちょういち)と言う。
郷里は仙台だが、東京の大学を卒業して、そのまま財閥系の大手総合商社に入ったが、宮仕えの身が性分に合わず、三十三歳の時、十年間の商社マン経験を生かして独立した。
そして、持ち前の積極さで、独立後二十年あまりで中堅商社としての地位を確立させ、脱サラ組としては成功者の部類に入っていた。
人間というもの、欲は限りがないもので、生活基盤が確立するまでは事業に専念していたのに、事業が軌道に乗り出すと別の欲が頭をもたげてくる。
筆一の場合は、名誉欲が出てきて、洗足小学校のPTA会長に自分から手を上げてなったのだ。
筆一は生徒名簿で岩田浩の住所を確認した。
電話で突然、父兄に話しするのも失礼だと思い、訪問することにしたのだ。
大田区の北千束にある浩の家の前に立った筆一は、呆然としていた。
三千坪はある大邸宅で、確かに表札には「岩田」と書いてある。
学校では、太一と張り合うぐらいの乱暴者で通っている浩だけに、筆一もさすがに度肝を抜かれた。
門構えだけでも今どき滅多にお目にかかれない五間一戸の大きさで、表札のかかっている戸口の横の監視カメラ付きのブザーを、筆一は押した。
「どちらさまでございましょうか?」
女性の声が聞こえてきた。
「洗足小学校のPTA会長をしております、上村と申します。岩田浩君のお宅でしょうか?」
「はい、左様でございます。どういうご用件でしょうか?」
老いた女性の声だった。
「ご主人はいらっしゃいますか。突然で申し訳ないのですが、浩君のことでお話があってやって来たのです」
返事はすぐになかったが、間を置いて、「少々、お待ちを」と言ってガチャンと言う音がした。
五分ほどして、戸口が開いて、浩が出て来た。
「上村のお父さん!」とびっくりした様子でしげしげと筆一を眺めている浩の後から、先ほどの老女が出て来て、「どうぞ、お入り下さい」と言って門の中に戻って行った。
その後を筆一は浩と一緒に従いていったが、浩が、「おじちゃん、何の用事?」
と怪訝そうに聞く。
「今度のキャンプに行く件だよ」
怪訝そうな浩の表情が明るくなった。
「なあんだ、そんな事か!」
安心した様子で、いろいろと筆一に聞いてくる。
その前を歩く老女は、まったく聞いていない様子で淡々と歩いているので、「あの人は?」と筆一は小さな声で浩に聞いてみた。
「僕が生まれる前からずっといるお手伝いのお婆さんだよ」
と小さな声で言って、ウィンクをして笑った。
学校では、乱暴者で通っている浩と聞いていた筆一だったが、その表情からは素直な良い少年だと思った。
子供というものは、素直な純真無垢なところが一番の財産だ。他の動物にはそれがあるが、人間の子供にはますます欠けてきている。これも現代病の一つである。
浩の無垢な面を垣間見た筆一は、初めて子供のかわいさを知ったような気がした。
岩田家の門から一般道路と変わらない巾の石垣道が数十メートルも通っており、普通は車が直接玄関まで行けるようになっていた。
筆一は車を外に停めていたので、これなら中に入れてくれればいいのにと思ったが、お手伝いの老婆が、筆一の様子で察しがついたのか、「申し訳ございません。どなたか分かりませんでしたので、玄関までお車をお通しできなくて」と頭を下げて詫びた。
「いえ、とんでもない。わたしが突然おじゃましたのですから」と筆一も頭を下げた。
玄関の前がロータリーのようになっていて、車が玄関前で停められるようになっている。
洋風の大きな自動ドアーになっていて、中に案内されると、とてつもない大きなホールが目の前に現れた。
筆一の家も一般庶民から見れば大邸宅なのだが、この屋敷の壮大さに圧倒されてしまった。
「一体、この屋敷の主人は何者なんだろう?」
思わず言葉を漏らしてしまった。
「おじさん、驚いた?僕の家」
「うん」筆一は正直に答えた。
「ぼくんちの、お父さんはスーパーマーケットをたくさん持っているんだ。オールマートていうスーパーマーケットを知ってる?」
オールマートは日本のみならず、全世界でもトップのスーパーマーケットチェーンだ。
筆一の会社も輸入食料品を納入している。
内心驚いた筆一だが、あくまで用件を淡々と伝えるだけで事を済まそうと思った。
応接間に通された筆一は、浩が一緒にソファーに座ってくれているだけで、安心感が増した。
「情けないが、この十才の子供がいなければ、緊張感の余り気を失いそうだ」
そこへドアーが開く音がして、筆一はドキッとした。
「どうも、お待たせして申し訳ありませんでした。浩の学校のPTA会長さんがわざわざ来られたと言うものですから、びっくりしまして服を着替えていたのです」
筆一の正面のソファーに座った浩の父親は、丁寧な挨拶をした。
「どうも突然おじゃまして申し訳ございません。上村筆一と申します」
声が震えている。
「ああ、これはどうも。浩の父親の岩田武男です」
話をしているうちに、筆一の緊張は解けていった。
浩の父親が、世界一のスーパーであるオールマートのオーナーだと聞いて緊張したが、対面するとごく普通の人物で、筆一よりも大分年長の老人であった。
「わたしは、もうじき七十才になる年寄りで、浩は孫だと言った方がみなさんは納得されるのですが、わたしが五十九才の時の子なのです。事業馬鹿でして、ふと気がつくと、とうに五十を過ぎている独り身であったのです。幸い良い伴侶に巡り会えて、五十才半ば過ぎで初婚だという変な男です」そう言って笑った武男に、誠実な印象を持った筆一だった。
「浩は学校では乱暴者で通っているようで、ご迷惑をかけて申し訳ございません。
歳をとってからの子供なので、孫のような気持ちで甘やかしたものですから。ただ弱い者いじめをしてはいけないと、きつく言っております」
「とんでもありません。浩君があんな大怪我をしたのに御両親が何のクレームもされなかったので正直助かりました。警察沙汰になってもおかしくない事件だったと今でも思っています。ありがとうございました」
筆一が再度頭を下げると、武男は手を横に振りながら、「あれは自業自得です。人に恨みを買うようなことをしたからです。しかしわたしは後から事情を聞いて、浩を誉めてやりました。子供といえども人の世のルールを守らないのが沢山います。あの浩に乱暴を働いた子供もそうでしょう。何か親ともども消えてしまったそうですが、情けない話です。あなたの娘さんに乱暴を働いたことはいけないことですが、わたしは浩のやったことは、正しかったと思っています。暴力も時と場合によっては必要な時もあります。古い考えだと言われるかもしれませんね」
実に良識ある人物だと思った筆一は、来訪した趣旨を説明すると、武男も心よく引き受けてくれた。
「わたしの出来ることなら何なりと申しつけください。よろこんで、いたしますから、今後ともよろしくお付き合い願います」
武男は深々と頭を下げた。
門まで浩と一緒に送りに来てくれた武男に挨拶をして車に乗った筆一は、「来てよかった。何か心につかえていたものがとれたような気がする」と思った。