第四章  二朗の反撃

浩だけではなく、太一という強力な敵が現れたことで二朗は、ますます学校に行く気がなくなっていった。
「お母ちゃん、僕お腹が痛いから学校休むわ、ええやろ?」
二朗の母親は典型的な現代女性で、結婚するまではスチュワーデスをしていた。
スチュワーデスという職業も、程度が落ちて来た。
今では、スチュワーデスとはあまり呼ばれない。
外国ではエアーホステスと言うのが一般だが、日本ではホステスと言うだけで夜の女という悪いイメージがあるから、アテンダントと呼ぶようになった。
質も昔に比べて落ちたもので、好みの客にアプローチを自分からするような低劣なアテンダントも半分以上いるらしい。
彼女らにとってのターゲットは、馬鹿なタレント、プロスポーツマン、そして商社マンだ。
金か見栄のどちらかで選ぶ。
二朗の母親も、商社マンを主人にしたが、時代が変わり、今や商社マンはプライドも無くしてしまっている。
昔の商社マンには、猛烈なビジネスマンがいて、日本の経済をひっぱっている時代もあった。
しかし、当時でも見栄を張る性癖は職業病なのか強く持っていた。
ところが今や、上面だけのプライドだけで、収入がかつての他の製造業のサラリーマンよりも断然多かったのが、長い不況と情報化時代の到来で存在価値がなくなり、並以下になったから見栄を張るパワーもない。
元々が狡猾な性質の職業だから、見栄を張らなくなった商社マンは、まるで中東の国の悪徳商人のように約束も守らない、実にケチ臭い人間になり下がってしまったのだ。
二朗の母親も、主人に疑問を感じ始めていて、毎日フラストレーションが溜まり、子供のことなど構っていられなくなっていた。
「いやなら、行かんでええわよ」と余りにもあっさりしている母親に二朗も拍子抜けした。
「やっぱり、行くわ」
「ああ、そう。いってらっしゃい」
親を当てには出来ないと思った二朗は、仕方なく学校に行こうとした。
「お腹が痛いんと違うの?学校で薬貰わんとあかんよ」
家に薬があるはずなのに、学校で貰えと言う。
仮病だから、別に薬など必要なかった二朗だが、余りに計算高い母親にあきれかえってしまった。
商社マンは夫婦共に計算高くなるのが宿命のようなもので、海外駐在を何度かすると、自然に家庭同士の付き合いをすることになるから、商社マンのブローカーイズムが女房にまで浸透するのだ。
二朗もそのブローカーイズムを発揮して、恵津子を放り出して逃亡したのだが、彼らの家庭は、全員ブローカーイズムが浸透していて、それが完全に習い性になってしまっている。
学校に行くと言って家を出たものの、足が学校に向かない。
だが二朗は、頭だけは聡明だった。
「ここで負けたら終わりや」
そう思った二朗は、あることを思いついて学校の方へ足早に向かった。
二朗の反撃が始まったのだ。
学校に着いた二朗は、同じクラスの浩の席に向かって行った。
後ろから背中を突付かれた浩が、不意を突かれた様子で振り返ると二朗が黙って立っている。
「何だよう!びっくりするじゃねえかよう!」
浩は怒りを露にして叫ぶように二朗に言った。
「お前に話があるんや。ちょっと顔貸してくれへんか?」
顔を貸してくれという意味が分からない浩は、解せぬ表情で、立ち上がって二朗を見下ろすようにして言った。
「話があるって何だよう?顔を貸すってどうするんだ?」
二朗は何も言わずに、教室を出て行った。
浩もその後を追うようについて行った。
グラウンドと反対側にプールがあって、そのプールの階段のところまで二人が来ると、急に二朗が向き直って叫んだ。
「この前のお返しや!」
二朗は自転車のチェーンを巻いた右手で、浩の顔を思い切り殴った。
浩の顔の肉片がちぎれるように飛び散って、浩は悲鳴をあげた。
余りの激痛に声も出ないでうずくまっている浩を、二朗は容赦なく殴る蹴るのやりたい放題のことをした。
血の海と化したコンクリートの階段に寄りかかって浩は失神状態になっていたが、二朗は薄笑いしながら言った。
「おれを怒らしたら、ほんまに恐いこと分かったやろ?」
二朗の言っていることも分からない状態の浩に、またチェーンを巻いた右手で止めのように腹を殴って、せせら笑いながら二朗は学校から立ち去った。
浩を乗せた救急車が、学校からサイレンを鳴らしながら病院に向かって行ったのを、健吾と太一が学校の前で見送った。
「西本の野郎、ひどいことする奴だ!」
憤慨していた太一の横で、健吾はここまで残忍なやり口に戦慄して膝ががくがくしていて何も言葉が出せなかった。
太一に比べて健吾はまだ幼なかった。
以前、浩を殴り倒したことがあったが、そのとき健吾は相手を意識して傷つけるような気持ちはまったくなくて、ただ爆発した怒りを相手にぶつけただけだった。
しかし、二朗がやったことは、相手を傷つける意図が明らかで、そういう気持ちに何故なるのか、まだ九才の少年には理解できなかった。
京都の学校で佳代を守るために連日喧嘩をした経験のある太一は、勉強のできる少年の中に潜んでいる凶暴性を知っていた。
「ああいう奴がたまにいるんだ。京都でも何人かいたよ。何をするか自分でも分からないらしい。そういう奴とは、東京に帰るまで仲は良くなれなかったよ。
俺や浩みたいな勉強の出来ないのは、馬鹿だからすぐに忘れて、いい奴だと思うと仲直りできるんだけど、頭のいい奴は執念深くて気持ち悪くて、友達になる気はおこらなかったよ」
しみじみと語る太一の表情をしげしげと見ながら健吾は、「太一は、何でもよく分かっているんだなあ」と思った。
一緒にやって来た警察が、事情聴取をし始めた。
それほどに浩の状態は重症だったのだ。
そして西本二朗が、怪我をさせた張本人であることを知った警察は二朗の家に行ったが、もぬけの殻になっていた。
どうやら一家で逃げたらしい。
父親は総合商社に勤めていたので、警察は会社に問い合わせたが、休んでいるという答えだった。
「どうやら一家で逃亡したようだな」
刑事が言った。
病院に運び込まれた浩は、幸い命に別状なかったことがわかり、浩の親も訴える意思がないと警察に伝えたので、警察は事件にせず帰って行った。
病院に来た健吾と太一は、やっと浩に会うことが出来たが、顔中包帯だらけになっている浩を見て二人はショックを受けた。
やはり、まだ子供だ。
その時、栄一と大野武吉が佳代を連れて病院にやって来た。
なんと、その傍に恵津子が立っていた。
「大野先生、この度は、こんな不祥事を起こしてしまってPTA会長として誠に申し訳なく反省しております。何とか先生のご尽力で、事なきよう御計らい頂けませんでしょうか」
恵津子の傍に立っていた初老の男が大野武吉に話かけた。
「健吾、あれは上村の親父だぜ。PTA会長だと言ってたから」
太一は健吾に話しかけたが、健吾は黙っていた。
「あの家族は一体どうしたのですかね。父親は大手の総合商社の社員だそうですが、どうやら行方をくらませたようです」
栄一が二人に説明すると、
「こんな事で、会社を棒に振るなんて分からんですね、最近の大人は。これも政治の貧困から来ているんでしょうね」
自己嫌悪に陥った様子で武吉は溜息をついて呟いた。
「逃亡した両親の年令はいくつぐらいなんでしょうか?」
栄一が聞くと、
「四十代初めの夫婦だそうです」
恵津子の父親が答えた。
「そうですか。やはり問題の年代ですね。昨今の日本の家庭は、四十代初めの夫婦の子供に問題児が多いんです。戦後教育が浸透しだした昭和四十年代後半に中学生から高校生だった連中です。日教組が幅を利かせていた時代で、もう教育は滅茶苦茶になっていた中で育った連中が親になったのですから、その子供は躾をまったくされずに育ってしまった。今度の少年もそうでしょう」
結局、西本二朗もその両親も行方をくらませてしまった。
恵津子は、その頃から、あの溌剌とした明るい少女から、暗い寡黙な女の子に変わっていった。
それを遠くから眺めていた健吾と太一は複雑な気持ちだった。