第九章  運動会での屈辱

秋の運動会が近づき、かけっこの得意な健吾がクラス対抗男女混合リレーのアンカーに選ばれた。
恵津子もかけっこが得意で学年では女子ではもちろん一番速く、男子でも恵津子を負かすことができる生徒は少なかった。
小学校の高学年になると、女子の体格の方が男子よりもいい。それだけ成熟が女子の方が早くはじまるからだ。
恵津子は女子のアンカーでバトンを健吾に渡すことになった。
スタートの音と共に一斉に女子から始まったリレーは、恵津子にバトンを渡される時点で三位につけていた。
恵津子は前を走る二人を一気に抜き去り、トップで最後の健吾にバトンを渡した。
健吾は自信満々に走り出した。
コースの中間点を通過した辺りで、大きな歓声が湧いた。
後ろから、健吾を追い上げてくる生徒に観客は驚きの歓声をあげている。
その生徒は、一番後ろから四人をごぼう抜きし、トップの健吾に迫る勢いだった。
健吾が後ろを向くと、もう直前に迫ってきている。
「見たことのない顔だ。一体誰なんだ?」
と思った瞬間、その見知らぬ男子生徒は健吾を抜き去っていった。
今まで味わったことのない屈辱感だった。しかもまったく知らない生徒に抜かれた精神的なダメージを受けた健吾は、ゴール直前で足を取られ、前のめりに倒れ、一瞬意識を失った。
「垣内!しっかりするんだ!」
目を醒ますと、工藤先生が健吾に向かって叫んでいた。
体を起こして、ゴールにやっと辿り着いた健吾に、大きな歓声と拍手が起った。
擦り剥いて赤く血にそまった膝を見ていた健吾は一番後ろの六番の旗のところに連れて行かれた。
そこには、クラスの仲間が並んでいて、みんなが健吾に、「垣内、大丈夫か?」
と声をかけてくれた。
しかし、恵津子はしらっとした表情で、一番の旗のところに立っていたその見知らぬ生徒のところへ駆け寄って行った。
「西本君、すごいわね。かっこいい!」
と言って、今にも彼に抱きつかんばかりにはしゃいだ。
その光景を目のあたりにした健吾は、それまで恵津子から避けられていることは分かっていたが、いつかはまた元に戻れるという自信があったのに、それを木っ端微塵にされたのだ。
呆然と立ちすくんでいる健吾に、川端先生が声をかけてくれた。
「垣内君、早く退場をして!」
一番後ろで足を引きずりながらグラウンドを退場していく姿を、母の春子は、じっと見つめていた。
「何重もの屈辱を味わって、かわいそうに」
自然に涙が流れていた。
「こういう経験もいいことだ、春子」
横に栄一が来ていた。
「あなた、いらしてたんですか?」
「うん、やはり自分の子供がみんなの前でどういう姿を見せるか気になるもんだ。滅多にしないことをするもんだから、こんな光景を見るんだなあ」
さすが栄一も健吾のことが気にかかるようだった。
「すごい子が現われたもんだなあ」
と横で父兄が感心していたので、栄一はその父兄に聞いてみた。
「あの素晴らしい走りをした生徒は見たことがない子だけれど、ご存知ですか?」
「ええ、何か大阪から転校してきた子らしいですよ」
「ああ、そうですか」
と言いながら、その生徒を視線で追いかけると、恵津子と親しそうに笑っていた。
「こちらの方が健吾には堪えるだろうな」
と言いながら春子を見たら、春子も頷いていた。
運動会での屈辱は 健吾の心に傷を残した。
しかし栄一と春子は、健吾の成長のための良い経験だと捉えて、健吾に対するフォローは一切せずに、自分で心の傷をどのように癒していくかを見守ることにした。
「本人にとっては辛いことだろうが、大人になってしまえば甘酸っぱい思い出として懐かしく思う程度のものだ。放っておきなさい」
栄一は春子に言った。
しかし、健吾は思わぬ行動に出た。
翌日から、朝五時に起きて運動をすることを決めたのだ。しかもその後、勉強もするというおまけまでついている。
春子が栄一に報告すると、
「あの子は、大器晩成型かもしれないな。努力することによって悩みを克服していく知恵を知っている」
と栄一は喜んだ。
結局、八才の心の傷をバネにして、健吾は朝五時に起きるという一生の習慣をつけるスタートをしたのだ。心の傷は、とてつもない大きな金の卵を産んでくれたのだ。
本人は、それどころではなく、屈辱を晴らすために必死だったが、健吾の最大の財産は意志の強さだ。努力を継続することで必ず何事も克服できることを体で知っている。
三年生の秋に始めて味わった屈辱、そして心の傷の痛さを自力で癒すには、それほどの時間はかからなかった。
翌日は運動会の代休だったが、健吾は五時に起きた。
そして一日中、部屋に閉じこもっていたから隣の健二が心配して春子に言った。
「健吾、ますますおかしな行動をするようになって来たよ。大丈夫なの?」
春子は笑いながら、健二に聞いた。
「健二は、小学校の運動会ではかけっこの成績はよくなかったけど、どう思っていたの?」
「うん、そうだな。速く走れる奴をうらやましく思ったけど、中学校に入ると小学校ですごいと思った奴がみんな大したことないんだ。それで、何だこんな程度だったのかと思った時に劣等感から解放されたよ。健吾も昨日の運動会で何かあったの?」
健二はさすがに頭がいい。自分の小さい頃の精神遍歴をきっちり整理できている。
健吾も無意識のうちに、健二の言っていることを知っていたから、朝五時に起きることを子供ながらに決意したのだ。
小さい時に、決意する経験をすることほど貴重なことはない。
将来、大人物になるような人間は必ずといっていいほど同じ経験をしている。すべてに恵まれた現代日本では、なかなか経験できないだけに、健吾の人生にとっては、とてつもない大きな宝物を与えてもらったことになった。
「恵津子ちゃんと、あの大阪からやって来た子に感謝すべきだね」
栄一が帰宅して、春子に言った。
しかし、健吾は明日から学校に行くことを考えると憂鬱になった。 
翌日、学校に行くと、まだ運動会の興奮の余韻が残っていて、教室では大阪から転校してきた西本二朗という生徒の話題で持ち切りだった。
彼は三年B組の生徒で、そのクラスには、健吾が以前打ちのめした岩田浩がいる。
健吾が教室に入ると、生徒たちは話題を変え、愛想をふるように健吾に話しかけた。
「垣内、足はもう大丈夫か?」
「垣内君、元気?」
気遣われていることが健吾には余計辛かったが、表面上は何もなかったように、必死に平静を保っていた。
「うん、大丈夫だよ。だけど、すごいよなあの子、何ていう名前なんだ?知ってる?」
みんなの顔を見回して聞いてみたが、誰も知らぬ振りをしていた。
「西本二朗君よ。素敵だわ、西本君」
席に座っていた恵津子が教室の天井を見ながら、うっとりとした顔で独り言のように言った。
「なんだ、上村の奴。西本にいかれてるんだ」
みんながぶつぶつと言っている。
男子生徒は上村恵津子に憧れている。
そして西本二朗が女子生徒の憧れ的存在として颯爽と登場した。
それ以来、三年生の中では彼の話題で盛り上がった。
元来、健吾はこういったミーハーな世界にはまったく関心がない。だから気にはならなかったが、恵津子の言動には刺激されることが多くなった。
クラスが違うのに、恵津子はB組の教室に遊びに行っては二朗と話しをし、授業が終わると二朗と一緒に帰っていくことが頻繁になり学校中でも噂になった。
以前は太一と三人で帰り、お互いの家に遊びに行く仲間だったのに、太一が京都に行ってからまったく様子が変わってしまった。
西本二朗は生粋の大阪生まれで、言葉も大阪弁を喋る。
それが恵津子には珍しい体験だった。
大阪弁というのは、東京の人間にとっては非常にユニークな感じがして親しみを感じさせてくれるようだ。
その上に、二朗の父親は大手総合商社に勤める会社員で海外生活もあり、日本でも転勤でいろいろな都市に住んできたから、独特の考え方を持って子供の教育をしてきた。
西本二朗は、両親の猛烈な教育を受けてきたので、学力も図抜けていた。
商社マンの家庭では、子供の教育に異常なエネルギーを注ぐ。
人間が商品の業界だから、売れる商品に常に自分を置いておかなければならない。
だから子供の教育にも自然、熱心になる。
その代り、人間性の喪失が代償として払わされる。
それが子供にも払わされるのだから、歪んだ子供に育つ。
二朗がその典型であったから、普通の家庭教育を受けている生徒たちには、全く異質な子供に見えた。
しかし、恵津子は、健吾の時もそうであったように、異質なものに興味を示した。
二朗も恵津子が人気者であることを知って、興味を持ち始めた。
そしてやがて四年生になる春がやって来た。
健吾が朝五時に起き出してから半年が経ち、その間に健吾にも大きな変化が出てきた。
学年で一番大きい健吾が、ますます逞しくなり、同じ学年の生徒とは、まるで大人と子供ほどの違いになっていった。
二朗も運動、学業とも抜群の成績だったが、体格は健吾には遠く及ばなかった。
そしてある事件が始業式の日に起った。
二朗と同じクラスの乱暴者の岩田浩が、二朗の人気を妬んで始業式が始まる直前に二朗に喧嘩を売ったのだ。