第六章  四十日ぶりの学校

夏休みも終わりに近づいて、いよいよ東京に帰る日が来た。
「いろいろお世話になりました。また来年も来たいと思っています」
栄一が管理を依頼している老夫婦に挨拶をしようとすると、正一が先に言った。
苦笑する栄一に老夫婦は笑いながら、「正一さんは、この四十日間で大きく成長されましたね」と言った。
「僕は、成長してないの?」
健吾が不服そうに言うと、
「健吾が、横にいてくれたからだよ」
正一が健吾の頭を撫でながら言った。
その二人の光景を見た栄一は、本当に嬉しかった。
東京への帰路の車の中で、栄一は正一に質問した。
「正一、大学に行く目的ははっきりしたか?」
しばらく考えていた正一が慎重に口を開いた。
「目的もなしに大学に行こうとしていた自分の馬鹿さ加減に気づきました。今は、残念ながらそれだけしか答えることが出来ませんが、もう少ししたら、はっきり答えることが出来ると思います」
「そうか」とだけ言った栄一だったが、正一の答えに充分満足していた。
横で聞いていた健吾も、嬉しい思いがして、「軽井沢に来て、よかったね。正一兄さん」と言った。
「うん」と正一も健吾に言って微笑んだ。
始業式が迫って来ると、今までは憂鬱になる正一と健吾だったが、今年は待ち遠しい気持ちになっていた。
正一は、新しい目的を見つけるための旅に出かける心境だった。
そして四十日ぶりに恵津子に会える喜びを胸に感じて心が踊る健吾だった。
毎日会っていると、どんな好きな相手でもマンネリになってしまう。
特に、自分の心を制御出来ない子供は、ある意味で非常に冷酷なもので、一瞬にして心変わりをする。
それだけに、この四十日間のブランクは恵津子に対する思いを増幅させたと共に、恵津子もその思いを強くしているだろうという子供なりの計算もあった。
あと三日、あと二日と健吾はその日が待ち遠しくて仕方なかった。
そして遂にその朝がやって来た。
いつもより早く健吾は家を飛びだした。
正平はそんな健吾の姿を見て、母親の春子に聞いた。
「お母さん、僕はまた学校かと思うと、憂鬱になるのに、どうして健吾はあんなに元気なの?」
春子は微笑ながら正平に、「正平ちゃんも来年軽井沢に行ったら」と言うと、
「ふんん、そんなに軽井沢っていいとこなのかなあ」
正平は頭をかしげながら背中を丸めて学校に行った。
その二人の姿を見て、春子は来年は家族全員で軽井沢に行こうと思った。
健吾が教室に入ると、前の席に一人背中を見せて座っている女の子がいた。
「上村恵津子だ!」
一瞬、健吾は思って胸が熱くなった。
「おはよう」と無理やり大きな声を出した瞬間、健吾は呆然とした。
「垣内君!」と言って、その女の子は立った。
「佳代ちゃん!」
「垣内君、びっくりした?」京都に行ったはずの佳代だ。
「どうしたんだ、佳代ちゃん。京都から帰ってたの?」
健吾は何がなんだか分からなくなっていた。
「そうじゃないの。垣内君が軽井沢に行ったきりで帰ってこないから待っていたの。京都に今日帰るの、太一君と一緒に」
「ええ、何だって?太一と一緒に?」
そう言えば、佳代の送別会をしたときに三人で約束したことを健吾は思い出した。
「垣内君と太一君が京都に来るのを、わたし、ずっと待っていたのよ」
佳代から、突然言われて、何て答えていいのか分からなかった健吾だったが、たしかに送別会の時に約束したのは事実だ。
十才にもならない子供でも言葉に窮すると、心の中で複数の自分が現れて葛藤をするものだ。
「何て汚い自分だ」という感覚を、健吾のような繊細な子供だと感じる。
小学校も高学年になると、個人差はあるが心の葛藤が生まれてくる。
赤ん坊の時から母親によって条件づけと、言葉の教育を受け始めると、自我意識が生まれる。
五才頃から記憶が始まるのは、蓄積された自我意識に目覚めるからである。
健吾が幼稚園に行くことに拒否反応を示したのは、ちょうど自我意識に目覚めた時に、今まで社会的義務からまったく自由な中で生きてきた自分と、自我意識とが葛藤した結果であった。
普通の子供より早く自我意識に目覚めた健吾は、この瞬間に初めての葛藤が生まれた。
「何て汚い自分だ」
この初めての葛藤が生んだ言葉は健吾の記憶に一生残ることになる。
「おはよう、垣内君」
頭の中が混乱しているとき、再び教室の中で自分を呼ぶ声が聞こえた。
「佳代ちゃん」と言う健吾に、声をかけたのは恵津子だった。
「何を言ってるの、垣内君?」
久しぶりに見た、いつもの上目づかいに微笑む恵津子の顔だった。
瞬間、真っ白になった健吾は、言葉を失った。
佳代、健吾、そして恵津子の三人が教室の中で何も喋らず立っている姿を、夏の朝の太陽がまぶしく照らしていた。