第三章  軽井沢の夏休み

三年生の夏休みがやって来た。
垣内家は男兄弟四人が、夏休みになると家にいる。
長男の正一は高校三年生、次男の健二は高校一年生、三男の正平が中学一年生、そして末子の健吾だ。
体は大人に近い兄たちが家にいると、かさ高く、息が詰まりそうになる父親の栄一は軽井沢にある別荘にいることが多い。
母親の春子は、子供の世話をしなければならないから、軽井沢には行けない。
春子は、家庭では栄一を常に最優先に心がけてきた。
「まずはお父さんが」
これが春子の口癖だった。
兄たちは亭主関白の家庭に最初は反発を感じていたが、父親としての生き方を理解出来る年頃になっていた。
正一は夏休み直前に栄一から聞かれた。
「大学に行くつもりか?」
そんなこと当たり前だと思っていた正一だったが栄一の前に出ると緊張する。
「ええ、そのつもりです」
垣内家では、父親に対しての言葉遣いに厳しい躾をされていたから、必ず最後に「・・・です」と言うのが習慣になっていた。
友達の家庭はみんな、父親に対しても友達のような喋り方をするらしい。
どちらがいいのか難しいところだ。
余り固苦しい喋り方をしていると心まで固くなってしまう恐れがある。だからといって目上の人間に対しても敬語を使わない最近の風潮は、尊敬の気持ちと憧れの気持ちとの区分けが出来なくなってしまう。憧れるものが尊敬の対象になってしまうと、ものごとの判断が他人任せになってしまう危険性がある。
つまり、憧れている対象の言動がすべて正しいと思ってしまう。
タレントスターに憧れる子供たちは、テレビで見るスターたちの態度をそのまま真似してしまう。
尊敬する姿勢は、自己の内面から湧いてくるもので、自己判断が出来ない人間には、尊敬する心は生まれてこない。
判断する能力は、いい意味での差別化能力である。
ところが、日本の戦後教育の風潮はすべて平等、差別反対一本やりだった。
平等にも前提条件がある。それぞれが同じ努力をしたら平等という結果を得られる、努力に差があったら結果にも差が出るのが当たり前だ。
何のために試験をするのか、何のために運動会をしてかけっこさせるのか。
日頃の努力の結果を試すためにあるのだから、その結果を平等にするなら試す必要などまったく不要である。
それなら受験制度など止めてしまえばよい。それこそ差別化の最たるものであるのに、受験制度廃止運動を起こさない先生たちが、差別になるからと言って、試験の結果を発表しない、運動会でかけっこさせても結果を発表しない。
矛盾というより稚拙すぎる。
栄一は今の受験制度が、日本の教育の一番の癌であると思っていた。
目標が大学に入ることで、大学で何を学ぶかが無い。だから大学に入るために必死に受験勉強はするが、入ってしまったら遊ぶところだと思っている大学生がほとんどだ。
何も学ばない学生が、社会に出ても自分に何の取り得もないから、自然に大企業のサラリ−マンになってしまい、後はずるずるとマンネリ人生に陥ってしまう。
そして会社員人生に埋没してしまい、会社のこと以外にはまったく無関心な大人になってしまう。
この無関心な大人が最大の癌であり、無関心人間を大量に造るのが受験制度だ。
「大学に行って何を修得したいんだ?」
栄一の質問に正一は答えられない。
「大学で何を修得するのかなんて聞かれても、ただ出来るだけ良い大学に入れば良いんじゃないですか?」
栄一は「こんな風にしか考えていないんだ」と思った。
「夏休み期間中は、お父さんと一緒に軽井沢で過ごしなさい」
横で聞いていた健吾が栄一に言った。
「お父さん、僕も夏休みに軽井沢に行きたい」
春子がそれを聞いて、「正一は軽井沢でお父さんの指導を受けるために行くのよ。遊びじゃないわよ」と健吾を窘めたが、栄一は健吾に聞いた。
「どうして健吾は軽井沢に行きたいんだ?」
栄一は、健吾の言うことには必ず本人の意向を確かめてみるようにしていた。
「だって、正一お兄ちゃんがお父さんからどんなことを教えてもらうのか知りたいから」
「知ってどうする?」
「どっちみち、僕もいつか同じことをされるんだったら、今知っておいた方がいいもん」
栄一は笑いながら答えた。
「春子、夏休みの間は健吾も軽井沢の生活をさせよう」
「やった!」健吾は喜んだ。
どんなに厳しいことが待ち受けているか健吾には想像すら出来なかったが、正一には、何となく判っていた。
正一は軽井沢で大学受験勉強の薫陶を父親の栄一から受けられると思っていた。
健吾は、夏休みを太一や恵津子と一緒に遊ぶ楽しみよりも、父親と接する機会が増える喜びの方を優先したのだ。
軽井沢では、昔から、ある老夫婦が家の管理をしてくれており、栄一がいる時は、家事の世話も彼らがしていた。
正一も健吾もよく知っている老夫婦で、今度も彼らが面倒をみてくれると思っていた。
「今日から、軽井沢の家のことはお前たち二人がみんな責任を持ってやるんだ」
軽井沢に向かう車を運転しながら、栄一は彼らに言った。
受験勉強のために軽井沢に合宿に行くものと、てっきり思っていた正一はびっくりした。
だが、正一は何も言わなかった。
「お父さん、みんな責任を持ってやるって何をやるの?」
健吾が栄一に聞いた。
「正一がお前に教えてくれるよ」
健吾が助手席に座っている正一の方を向いた。
「掃除、洗濯、食事の用意まで全部さ!」
正一は観念した表情で健吾に言ったが、顔は運転席に向いていた。
だが栄一は平然としていた。
「正一兄さん、僕、掃除ぐらいだったら出来るけど、食事の用意なんて出来ないよ」
正一はいらいらしながら、
「そんことは分かっているよ!僕がやらなければならないんだ、何もかも。そして勉強もしなければならないんだ」
口を尖らせて健吾に言った。
軽井沢に着いても、健吾だけがはしゃいでいて、栄一は終始笑っているだけで、正一はふくれ面をしていた。
軽井沢の家に到着すると、老夫婦が門の前で待っていてくれた。
「旦那さま、いらっしゃいませ。本当に、わたしたちは何もしなくてよろしいんでしょうか?」
「いつも御苦労さん。これから一ヶ月ほどは楽してもらうから、なあ正一?」
栄一は正一の方を向いて笑いながら言った。
「ええ、そういうことです。僕にまかせておいてください」
正一はやけくそ気味に言った。
「ええ、じゃなくて、はいだろう。正一」
「はい」
これからの一ヶ月を考えると気が遠くなるような正一だったが、健吾ははしゃいで家の中を飛び回っていた。
「いろいろと気のつく子だと思っていても、やはりまだ九才の子だ」
栄一ははしゃいでいる健吾を見て思うのだった。
「さあ、問題は正一だ。一ヶ月もつかな」
正一の表情を見ていると、栄一は不安だった。
正一の性格は温厚ではあるが、突然豹変することがある。
今までに栄一は、そういう正一を何度も見てきた。
次男の健二は、麻布高校の一年生、学校の成績も抜群で、水泳部に所属して運動、勉学共にまさに優等生中の優等生だ。性格も明るく、人から好かれるタイプで同世代の若者の憧れ的存在だった。
二つ違いの兄の正一は、そういう健二に劣等感を持って育ってきた。
正一の高校は名もない私立洗足高校といっておよそ、麻布高校とは月とスッポンほどの差だ。
日頃から劣等感でフラストレーションが溜まっているから、一度切れると人間が変わってしまうところがある。
栄一は正一のこの性格を社会人になるまでに矯正しておかなければ、おかしな人生を歩む危険性があると思っていた。
だから、軽井沢に連れて来たのだ。
自信を持たせることが大事なのだが、表面的な自信は返って危険だから自力で克服させるしかない。
人間の基本的力は体力である。
栄一は徹底的に体力と精神力を鍛えてやろうと思っていた。
栄一の一日は朝五時から始まる。それは場所が変わっても一緒だ。
東京の家では、それは栄一の世界であり、春子にも子供たちにも強制はしなかったが、軽井沢では正一、健吾にも朝五時の起床を義務づけた。
朝五時から六時半まで一時間半たっぷりと栄一と一緒に体力づくりをさせられ、そして朝の食事を作らなければならなかった。
朝八時に三人で食事をし、その後栄一は東京まで仕事に出かける。
正一はすべての食事の用意をし、その上に栄一が作った勉強と体力づくりのメニューをこなさなければならない。
まさに、修行僧の生活スタイルだ。
メニューをこなすだけで精一杯で、余計なことを考える余裕などなかった。
気を抜こうとする気持ちにしょっちゅう襲われる。
その時、独りならやってしまうのだろうがいつも自分の影のように健吾がそばにいる。
心の中で何度も、「金魚の糞のように後をつけまわすな!」と正一は健吾を疎しく思うこともしょっちゅうだった。
だが、二週間が経った頃から正一の様子に変化が出て来た。
「健吾、正一に何か変わったところがないか?」
栄一が健吾に聞いた。
「最近、正一兄さん、明るくなって毎日が楽しそうだよ」
「何で、お前に分かるのだ?」
「だって、最初は僕があまりくっついてばかりいることに、怒ってばかりいたのに、最近は一緒に遊んでくれるんだ」
「そうか」
と栄一は内心嬉しく思った。
「正一の奴、すこし逞しくなったのかな」
そう思う栄一だったが、ここで手綱を緩めては元も子もなくなると気持ちを引き締めるのだった。
厳しく育ててもやはり親にとって子供はかわいいものだ。
この本音と建前を使い分けるのが父親の難しいところだ。