第二章  両親(おや)の値打ち

健吾が喧嘩をして怪我をさせた。
おとなしい子供が鬱積したエネルギーを爆発させた時は、太一のような日頃から腕白な子供よりも残忍なことをしでかすものだ。
健吾の性格はおとなしいというより内向的な性格で、その分鬱積することが多い。
特に、子供心でも合点がいかないことがあると鬱積したエネルギーが大きく噴き出すのは、兄の正平がいじめられた時に四才も下の健吾が、いじめた相手をやっつけた事件で証明していた。
「お前が垣内か?谷山と仲がいいからといって調子に乗るな!」
隣のクラスで一番の乱暴者と言われた岩田浩が健吾につっかかってきたのが原因だった。
太一という虎の威を借りた狐のように言われた健吾は切れてしまった。健吾にとって一番嫌な侮辱であった。
健吾の嫌いな言葉がいくつかある。
ずるい、うそつき、けち、きたない。
生まれつきの性格から来ているのか、とにかくこそこそすることが嫌いで、人に佞(おもね)ることを、最も嫌悪する、正義感が強い性格なのである。
小学生でも三年ぐらいになると、強い生徒に媚を売って金魚の糞のように従いてまわる連中が必ずいる。
健吾が最も軽蔑する対象なのだ。
そういう人間だと言われた健吾は、瞬間いろいろなことが頭に浮かんだ。
「自分が太一の子分だと相手に思われている。自分は太一を可哀想だと思って友達になってやっているんだ。別に太一が友達でなくても自分は困るようなことはない。太一よりも自分の方が本当は強いんだ」
気がついた時には、相手は健吾の足下で鼻から血を出して泣きわめいていた。
普段の健吾に戻った時は、まわりにいっぱい生徒たちが集まっていた。
「すげえな、垣内は!岩田をこんな風にやっつけるなんて」「強えんだな、あいつ。かっこいいな!」
内心、「しまった!」と思っていたのに、まわりの反応が違っていたので、つい強がって言ってしまった。
「俺が谷山の子分だなんて言うからだ!」
だが遅かった。
「自分は太一のことを意識し過ぎている」
そこへ川端先生がやって来て有無も言わさず健吾を職員室に連れて行った。
保険室で治療を受けた浩が、かなりひどい傷を負っていることを知り、職員室で川端先生だけでなく校長先生まで出て来て、健吾を尋問した。
「垣内君、あんなひどい怪我をするまで岩田君をどうしたんだ?」
健吾は黙っていた。
春子が学校に呼ばれて、「二度とこんなことをしたら、学校を辞めて頂きますよ!」と校長先生から言われた春子は、ただ謝罪するだけであった。
春子に連れられて校門を出たら、太一と恵津子が待っていた。
下を向いて黙って歩く健吾に二人は声もかけられず、ただ見ているだけだった。
「健吾ちゃん、太一君が待ってくれてるわよ」
春子に言われても、健吾は返事もせず黙っていた。
その日の夜、栄一と春子は怪我をした相手の家に謝罪に行った。
健吾は家にいたが、両親が帰ってきたら叱られると覚悟していた。
両親が帰って来て、健吾は栄一の部屋に呼ばれた。
「理由は何なんだ?あそこまでやるには訳があったはずだ」
栄一に聞かれた健吾は、正直に言った。
「そうか」
事情が分った栄一は急に笑い出した。そばで心配そうにしていた春子までが笑い出すのを健吾はまったく理解出来ずにいたら、
「まあ、あんな乱暴を働いて怪我をさせたのはよくないが、お前の怒った理由は正しい。言われるだけで引き下がるようなお前であったら、お父さんは返ってがっかりしただろう。なあ春子そうだろう?」
春子は嬉しそうに笑って頷いた。
「なんて、たのもしい両親(おや)なんだろう」
ずっと、もやもやしていた気持ちが晴れた健吾は、一枚皮が剥けた子供になっていた。
翌日、健吾は何かすっきりした気持ちで学校に行けた。
「おはよう!」
健吾は元気な声で太一と恵津子に言った。
明るい表情の健吾を見て二人は安心したようで、
「おお!番長の健吾」
太一らしい挨拶だと思った健吾が恵津子の方を見ると、いつもの上目づかいで微笑んでいたが目は潤んでいた。
健吾は知らぬ振りして恵津子に言った。
「僕は番長なんかじゃないよ。太一、お前の子分だよ。なあ上村、そうだろう?」
恵津子は首を振って「健吾君は、そんなんじゃない」潤んでいた目から一粒の涙を頬に落としながら下を向いて言った。
初めて恵津子が健吾と言った。それを太一も気づいていた。
「そうだ、そうだ。健吾はそんなんじゃないよな、なあ上村?」
太一が恵津子に向かって言うと、顔を上げずに恵津子は頷いた。
「健吾は、俺や岩田みたいなワルとは違うんだ」
太一は自分に言い聞かせるように小さく呟くと、「谷山君も、そんなんじゃないわよ」今度は恵津子がキリッとした表情で言った。
そして三人とも、そのまま黙ってしまった。
ちょうどその時、川端先生が教室に入って来たので、三人はそれぞれの席についた。
「おはようございます、みなさん。垣内君、元気?」
川端先生のこの一言の優しい言葉が、健吾に人間の善性に更に深い確信を持たせ、その後の人格形成に大きな影響を与えた。
人間の人格形成は、この年頃にほぼ確立され、その後のことはプラス方向に増幅されるか、マイナスの方向に退化されるかだけで、基本的要因はこの頃に固まってしまう。
健吾も、太一や恵津子にしても、今回の事件は、彼らの人格形成に幸運な出来事だったと言える。
それに大きな影響を与えたのは、父親栄一の大きく広い心であり、川端先生の優しい心であった。
やはり男は大きく、広いのがいい。女は優しいのが一番である。
この二人の立派な大人がいなければ、健吾は内に篭る陰気な性格で、只いい学校だけを目指すお宅少年になり、太一はぐれた少年から、道を外れた人生に足を踏み入れて行き、恵津子は鼻持ちならない、優しさのない少女になってしまっただろう。
子供の人格形成に、大人の責任は極めて大きい。
その日、三人は一緒に下校して、お互いの家に遊びに行くことにした。
「今日は、わたしの家に来ない?」
「うん、いいよ」健吾が言うと、「それじゃ、明日は俺んちの家にしよう。俺んちの家は小さいけど、気にしない」
三人の大きな笑い声が、満開になっていた桜の花を一気に散らせた。