第五章  山田先生の復帰

佳代が京都に行ったあと、健吾のとなりの席には上村恵津子という女の子が来た。
恵津子は洗足小学校二年生の中で一番の人気の高い女の子だった。
健吾は少しあまのじゃくな処があって、みんながちやほやする女の子には見向きもしなかった。
いじめられっ子の佳代が隣の席に来た時、佳代をかばったのも健吾のあまのじゃくな性格が、そうさせたのだ。
「おい、健吾。お前いいなあ、上村が隣の席なんて」
太一が休み時間の時にやって来て健吾に羨ましそうに言った。
「別に?!」
健吾は、そんなことはどうってことないと言わんばかりに太一に言ったのを横で恵津子が聞いていた。
恵津子は、ちやほやされている割には天狗にはならず、誰から見ても普通の女の子だった。
その点は健吾も恵津子のことを認めていた。
授業が終わって、下校しようと学校の門を出た健吾に、「垣内君、ちょっと待って!」と恵津子が追いかけて来た。
健吾は、繊細な性格だけに、すぐに恵津子の意図が判ったが、恵津子がそばにやって来ても普段の表情で待っていた。
「何か用かい?」
走ってやって来た恵津子が息を切らせていたのに、健吾は白々しく言った。
健吾の心の中に若干後悔の念が生まれた。
「垣内君、わたしのこと嫌いなの?」
恵津子はずばり聞いてきた。
「別に?!」とまた太一にしたのと同じ返事をしてしまった。
恵津子は黙ってしまったが、それでも健吾の横に並んでしばらく歩いていた。
健吾は自分のあまのじゃくな性格に腹が立った。
「嫌いじゃないよ、本当だよ」
何とかフォローしてやらないといけないと思った健吾だった。
恵津子は急に表情が明るくなって、「そう、そうなら良いの。ありがとう、それじゃあね。さようなら!」
上目づかいに微笑んで「さようなら!」と言って走り去っていった恵津子の姿が健吾の脳裏からしばらく離れなかった。
「自分の方が、意識していただけだ」
健吾は、恵津子の素直さに比べて、自分の心の狭さに嫌気がさした。
「おい、健吾!」
太一の声だった。
「おい、上村がお前のところに走って行ったじゃんか!あの子、何をお前に言ったんだ?」
太一が興奮して追いかけて来て言った。
「別に?!」
またまた同じ返事をしてしまったが相手は太一だから平気な健吾だった。
「何だよう?言えよ」
太一がしつこく聞いたが健吾は本当のことを言わなかった。
「ただ、さようなら!と言って走って行っただけだよ」
「ふうん?!」
さすが、鷹揚な太一でも引っ掛かったようだ。
「それより、佳代ちゃんは元気でやっているかなあ」
健吾から佳代の話題に変えたら、太一も表情が変わって、「うん、元気でいるようだ。手紙に書いてあった」と言った太一に、「何だ、佳代ちゃん、お前に手紙出していたのか!」と言われて、今度は太一がまずい表情になった。
「お前、それより上村は本当に、さようなら!だけ言ったのか?」
今度は太一が話題を変えてきたのが、健吾にはおかしかった。
「そうだ、太一。もうじき三年生だろう。山田先生、いや川端先生が帰って来るらしいよ。僕たちのクラスの先生になってくれたら良いのになあ」
「本当か?工藤先生は、もう俺、うんざりだ。本当に山田先生になったらいいなあ」
やっと二人の話題が一緒になった。
その夜、健吾は恵津子の夢を見た。
「さようなら!」と言って微笑みながら去って行った恵津子の姿がどんどん消えて行く夢だったが、まるで今日あったことそのままの夢だった。
ただ夢の中では、もう永遠に逢えない「さようなら!」を言われたと思いながら恵津子の姿を追いかけているものだった。
朝、目が醒めてこれほど悲しい気分になったのは初めての経験だった。夢だと分ったのにまだ余韻がはっきり残っていて、消えるのにかなりの時間が要したのは、健吾の意識に恵津子の存在が強烈に入ったからだ。
だが健吾は、まだそのことに気づかなかった。
「行ってきます!」
玄関に走って行く健吾に春子が言った。
「健吾ちゃん、まだ八時前よ!」
いつもは八時十五分前後に家を出るのだが、今朝の健吾は違った。
「どうしたんだ?今日は何か特別なことがあるのか?」
ダイニングテーブルに座りながら新聞を読んでいた栄一が春子に聞いた。
「いえ、何も聞いていません」
しかし健吾は春子の声も気にかけず家を飛び出して行った。
少しでも早く恵津子の顔を見たかったのだが、その気持ちがどういうものであるかが解るにはまだ七才の健吾には無理だった。
学校の門をくぐって教室に入ると、まだ誰もいなかった。健吾は自分の席に座ってただ恵津子が来るのを待った。
授業が始まるのが八時半だから、生徒たちがやって来るまでの三十分ほどの時間、健吾は一人、自分の椅子に座っていたが、その三十分がまるで一日のような長さだった。
ぽつぽつと生徒たちが教室に入って来る、その度に顔を確かめるのだが、まだ恵津子が来ないと思うと、だんだん不安な気持ちになっていった。
「おはよう!」
恵津子の声が後ろから聞こえた健吾は、咄嗟に声の方に振り返った。
あの上目がちな微笑みで健吾を見ている恵津子がそこに立っていたのを確認して、ほっとした健吾は気が緩んだのか、「おはよう!」と笑いながら答えた。「どうしたの垣内君?今朝は何かいいことがあったの?」
恵津子が不思議そうな顔をして聞いてくる。
「別に?!」
急にいつもの健吾に戻ったのがおかしかったのか、「変な垣内君!」と言って恵津子は自分の席に座った。
健吾はそれでも嬉しかった。
「何か、おかしいわよ。今日の垣内君」
恵津子が何度言っても、「別に?!」と無愛想に答えるのだが、昨日までとは違う何かを二人は感じていた。
下校途中で太一と一緒のところを恵津子が「さようなら!垣内君」と言って走り去って行った。
手で合図するだけだったが、昨日とは違って心の余裕があった。
「お前だけで、俺の名前は言ってくれないな、上村は」
不服そうな顔をして太一は言った。
「健吾、お前知っているか?上村のおやじがPTAの会長をやっているのを」
太一が言った「おやじ」という言葉に健吾は違和感を持った。
「おやじって、どういう意味だ?」
「おやじって意味知らないのか、お前。おとうちゃんのことだよ」
太一の家で、兄たちがおやじという言葉を使っているので、つい太一も言ってしまったのだが、小学生で自分の父親を「おやじ」と言うものはいない。
何とも響きの悪い言葉だと健吾は思った。
「知らないよ。PTA会長って何なのだ?」
「健吾、お前、PTA会長も知らないのか?」
太一はあきれた顔をして健吾を見つめていたが、健吾はまったく他のことを考えていた。
太一の声などまったく聞いていないのに、横でしゃべり続ける太一の姿と上の空で聞いている健吾の姿を早春の光がほのぼのと照らしていた。