時刻:2023年3月2日午前0時

お父さんが、独りで部屋に閉じこもって、わたしと同じようにしきりにもの書きをしています。
もの書きを始めてから、もう3年になるそうです。
だから、お母さんはとても幸せです。
だって、それまでのお父さんは、デビルと呼ばれる恐ろしい鬼神だったのですから、お母さんにとっては、もの書きをして大人しくしてくれていることが一番なんです。
お母さんは、高野山で生まれ、高野山で育ち、男の子だったら絶対にお坊さんになっていた筈です。
お父さんが、今、もの書きをしている中で、仏教の話が出てくるそうですが、みんなお母さんが智恵を授けてあげているようです。
これから、紹介する方も、仏教に造詣の深い立派な人で、京都の丹波篠山に住んで、農業をされています。
では、どうぞ。

「冬子ちゃんへ
人間は、どうして死から免れないことが福音になるのでしょうか、という質問ですね。
もし人間に、すべて生あるものは死から免れないことを教えられず、それを知ることが出来なかったら、人間は動物とまったく同じことになってしまいます。
死を与えられていることが分からなかったら、生きているということ、つまり生も分からないのです。
死を意識することが出来れば、生も意識することが出来ます。
必ず死を迎える、ということは、それまでは生きている、ということです。
生きている、ということは、必ず死が来る、ということです。
時間的に言えば、生から死への期間があるということで、死が来ることを意識するということは、この期間があると、いうことを意識することです。
死から免れない、ということを教えてもらわなかったら、この期間がある、ということも知らないことになりますね。
この期間の長さは人間には教えられていませんが、期間がある、ということが分かれば、この期間内に、生の有り方、つまり、どのように生きてゆくかを選ぶことが出来ます。つまり、どんな生き方をするかは、それぞれの人間の主観に委ねられていることになります。これが福音の意味するところです。
そうしますと、人間がなぜ生まれて来たのか、なぜ死んでゆくのか、と考える必要は無くなります。
今生きていることを素直に享受して、いずれ死ぬことも受容出来ます。
あるがままに生き、あるがままに死ぬことが、死から免れないことだと気づけば、このことを教えられ、それを知ることが出来たことを福音として感謝してもおかしくないでしょう。
次に、そんな生がどうして悦びになるのでしょう、という質問ですね。
お父さんの『鬼の掟第七条』にある、「天の意志なく生を受けられるものではない」という意味を考えてみましょう。
「天の意志なく」というのは、自分の力で生まれて来たのではないということです。
宇宙の法則の一部分である父母や祖先からの流れの中で、自分が生まれて来たということです。
生まれて来たという流れの中には、自分の意志は入っていません。
しかし、生まれてから生きる中には、自分の意志が入っています。
意志の入っていない状態から、意志の入っている状態になるのですから、これは自己の自由裁量に任せてもらえるという点においては悦びになるでしょう。
そしてその悦びの中から、生きている意義を知ることが出来る筈です。
生きている意義は、それぞれの人間の生き方の中で掴んでいくものですが、鬼や蛇という結果が出るか、仏という結果が出るか、誰にも分かりません。
ただ、わたしが今言えることは、死を知ることは生を知ることであり、生を知ることは死を知ることに繋がり、結局の処、生き方と死に方は同じになります。
これは知識によってではなく、実践で修得するものです。
禅問答のようですが、『死を生きる生き方』ということでしょうか」

さすがに仏教を勉強された方です。
死と生という言葉が何回も出て来て、ちょっと頭がくらくらしましたが、それは冬子が何も知らないからで、申し訳ありません。