第八章 地球=本当の自分の実感

自他の区分けは、五感、すなわち、外皮が境界線となって為されている。
従而、
自分とは自分の体であり、他者とは自分以外のものすべてということになる。
まさに、
肉体こそが自分である所以だ。
従而、
映像である他者、すなわち、自分の肉体以外のものはすべて映像ということになる。
そうすると、
自分の肉体は映像ではないのだから、見えないはずである。
なぜなら、
見えるものはすべて映像であり、実在するものは見えないからである。
そうすると、
見ることができる自分の体は映像なのだろうか?
では、
自分の体は一体どこまで見えるだろうか?
言い換えれば、
見える見えないが映像か実在かのモノサシ(境界線)とするなら、見える自分の体は自分ではない映像なのだろうか?
更に、
自分の体は一体どこまで見えるだろうか?
まさに、
地球と自分の関係こそ、この問いに対する答えである証左だ。
まさに、
自分の見える体こそ、地球の一部に他ならない。
まさに、
地球と自分の関係こそ、この問いに対する答えである証左だ。
では、
自分の見える体を、一番遠いところからじっくり眺めてみよう。
先ず、
目にするのは、手である。
そして、
手の延長にある腕が見えるが、肩の辺りまでで視界は消える。
次に、
視線を下に向けると、胸から腹部、下腹部、そして、肢体が見え、最後に足が見える。
大雑把にはこの辺りまでである。
ところが、
視線を凝らすと、鼻や眉毛、睫毛まで見える。
従而、
以上自分の見える体は、自分ではなく映像であり、地球の一部なのである。
先ず、
このことを実感できるかどうか?
地球は母なる大地である。
言い換えれば、
自分は地球の一員である。
この実感を得る最大の経験は、死ぬことである。
だが、
死んだ後の展開がどうなるか実感することは、現に生きている者にとって不可能なのである。
そこで、
映画のメカニズムを例にあげれば、死ぬ前の展開、すなわち、この世の事と、死んだ後の展開、すなわち、あの世の事を実感するヒントが隠されていることがわかる。
生きているということは動いていることだから、この世の事は白いスクリーンに映し出されている動画(映画・映像)である。
他方、
死ぬということは動きが止まることだから、あの世の事は映写室にある映写フィルム(静止画フィルム)である。
従而、
白いスクリーンに映し出されている動画(映画・映像)の先行きを見ることができれば、その動画(映画・映像)の元になっている、映写フィルム(静止画フィルム)である、あの世の事が想定できるはずである。
では、
どうしたら、白いスクリーンに映し出されている動画(映画・映像)の先行きを見ることができるだろうか?
そして、
映画には必ず脚本がある。
まさに、
映画にとって脚本は命綱に他ならない。
逆に言えば、
映画にとって原作よりも脚本の方が必要なのである。
なぜなら、
映画とは、映像だけではなく音声が入っているからである。
そして、
撮影した映写フィルムには音声がまだ入っていないが、脚本に基づいて映写フィルムの編集とそれに基づく音声が入れられ、晴れて白いスクリーンに動画(映画・映像)が映写され、この世の出来事となる。
まさに、
あの世の出来事を脚本したものが、この世の出来事となるのである。
まさに、
この世の出来事は映画であり、あの世の出来事が現実である証明に他ならない。
まさに、
この世の出来事は夢であり、あの世の出来事が実在である証明に他ならない。
では、
この世の出来事は生きている世界の出来事であり、あの世の出来事は死んだ後の世界というのだろうか?
言い換えれば、
この世とあの世は前後の世界というのだろうか?
まさに、
自分以外の世界はすべて過去の映像の世界なのである。
まさに、
この世の出来事は自分だけの世界の出来事であり、あの世の出来事は他者の世界の出来事という前後の世界なのである。
まさに、
過去・未来と現在は前後の世界だが、過去・現在・未来と『今、ここ』は表裏の世界なのである。