第三十五章 “Ego”生きもの・人類は突然変異種

人類は万物の霊長である。
そんなことを思っているのは当のわれわれ人間だけであり、母なる大地である地球は露にも思っていないのである。
そして、
母なる大地である地球にとっては、自我意識(Ego)のあるわれわれ人類は、突然変異種の生きものに他ならないのである。
その結果、
人類を頂点にする地球自体が危機に直面しているのである。
従って、
母なる大地である地球は、これから自己防衛の対策処置を取るのが当然である。
なぜなら、
母なる大地である地球にとっては、人類という突然変異種の存在は、まさに、アポトーシスという細胞の死の目的である癌細胞のようなものに他ならないからである。
ところが、
人類は万物の霊長である。
そんなことを思っているのは当のわれわれ人間だけであり、まるで、アポビオーシスという細胞の死の目的である心臓や脳のような存在と勘違いしているのに対して、母なる大地である地球は露にも思っていないのである。
従って、
癌細胞化した人間が、万物の霊長などなれるわけがないのである。
では、
突然変異種のような招かれざる客の人間がどうして地球上に誕生したのか?
まさに、
ここにも必要悪の存在意義を見出すことができる。
つまり、
人間のような突然変異種は、地球にとっては無用の長物以外の何者でもなかったが、地球に起こるある変化がゆえに、仕方なく人間を必要としたからである。
では、
地球に起こるある変化とは一体何だろうか?
まさに、
運動するがゆえに発生する位相の変化、すなわち、相転移現象こそある変化なのである。
その結果、
二元論世界が必要悪として誕生したのである。
まさに、
突然変異種・人類は、必要悪の存在意義ゆえ誕生したのである。
人類の祖アダムとイブは、なぜ善悪の判断をする禁断の果実を食した結果、エデンの園を追放されたのだろうか?
まさに、
エデンの園、すなわち、自然社会とは、善悪の判断など一切ない世界である証明に他ならない。
爾来、
われわれ人間の大人は、何事につけ、善悪の判断をするようになった。
殺すことは悪い。
盗むことは悪い。
レイプすることは悪い。
・・・・・・・・・・。
そして、
殺さないことが善い。
盗まないことが善い。
レイプしないことが善い。
・・・・・・・・・・・。
これらが相俟って、人間社会では法律にまでなってしまったのである。
まさに、
突然変異種・人類は、必要悪の存在意義ゆえ誕生したのである。
爾来、
幸福が好くて、不幸が好くない、などと勘違いした二元論的考えを持っているのが、われわれ人間だけなのである。
健康が好くて、病気が好くない、などと勘違いした二元論的考えを持っているのが、われわれ人間だけなのである。
睡眠が好くて、不眠が好くない、などと勘違いした二元論的考えを持っているのが、われわれ人間だけなのである。
まさに、
幸福、健康、睡眠は、必要悪である証明に他ならないのである。
言い換えれば、
幸福、健康、睡眠は、本来必要ないものに他ならないのである。
現に、
自然社会では、幸福や健康や睡眠の観念すらないのである。
まさに、
観念すらないものを概念として創造(捏造)することこそ、必要悪の存在意義に他ならないのである。
まさに、
必要悪の正体がここにある。
自然社会では、幸福や健康や睡眠の観念すらない。
まさに、
観念すらないものを概念として創造(捏造)することこそ、必要悪の存在意義に他ならない。
まさに、
必要悪の正体がここにある。
現に、
自然社会の生きものは寝ているのではなくて、休んでいるのである。
では、
われわれ人間が寝ているのは、何のためなのか?
まさに、
われわれ人間は心身共に疲れる人生を送っているから、寝ているのである。
なぜなら、
熟睡は肉体の疲れ、夢睡眠は精神の疲れを癒すために、眠っているのである。
現に、
われわれ人間の子供は、夢を観ていないのである。
まさに、
われわれ人間の子供は、精神の疲れが一切ない証明である。
そして、
肉体の疲れ、精神の疲れは、必要悪の証明に他ならないのである。
従って、
われわれ人間の大人は、必要悪生きものを乗り越えて、不要善生きものにならなければならないのである。
必要悪→不要善。
ところが、
われわれ人間は、善が必要であって、悪は不要だと信じ込んでいるのである。
それなら、
われわれ人間は、不要悪→必要善を目差さなければならないのでは?
では、
善と悪の真の意味は一体何だったのか?
まさに、
善と悪は表裏一体の一枚のコインを成し、悪が実在で、善は悪の不在概念に過ぎない証左である。
そして、
善=悪だったのである。
まさに、
人類は言葉を発明した所為で、二重錯覚の生きものになってしまったのである。
なぜなら、
人類は、実在するものを悪いという言葉で表現し、単なる実在の不在概念であるものを善いという言葉で表現するという二重の過ちを冒したからである。
その結果、
人類は、好いとこ取りの相対一元論の生き方、すなわち、実在するものを忌み嫌い避け、実在の不在概念に過ぎないものを追い求める、二重錯覚の生き方をする羽目に陥ったのである。
まさに、
悪で表現する言葉(不幸・病気・貧乏・悪魔・地獄・・・)はすべて現実のものであって、善で表現する言葉(幸福・健康・金持ち・神・天国・・・)はすべて非現実のものに過ぎなかったのである。
言い換えれば、
自然社会と人間社会での、善悪の判断は逆さまだったのである。
宇宙と人間社会での、善悪の判断は逆さまだったのである。
宇宙と自然社会での、善悪の判断は正さまだったのである。
まさに、
人間社会だけが、間違った社会だった証左に他ならない。
言い換えれば、
人間社会だけの善悪の概念が、間違っていたのである。
この事実は一体何を示唆しているのか?
まさに、
人間社会の常識は、古今東西で違うのではなく、古今東西間違っていたのである。
睡眠はできるだけ多くとってください。
医者はこう云う。
不眠症。
睡眠不足が原因で病気になる。
われわれ人間社会では常識である。
ところが、
睡眠は必要悪以外の何者でもないことは、先に述べた通りである。
平たく言えば、
われわれ人間が、完璧に生きていれば睡眠など一切不要なのである。
どうでもいいことで肉体が疲れるから、熟睡(NON−REM睡眠)を必要とするだけで、疲れていなければ熟睡(NON−REM睡眠)など必要ない。
現に、
肉体の心臓や他の臓器は、休んだことなど一瞬たりともない。
どうでもいいことで精神が疲れるから、夢睡眠(REM睡眠)を必要とするだけで、疲れていなければ夢睡眠(REM睡眠)など必要ない。
現に、
われわれ人間の子供なら、精神的疲れなどないから夢睡眠(REM睡眠)などない。
まさに、
睡眠は、必要悪以外の何者でもない証左に他ならない。
畢竟、
われわれ人間にとって大事なのは、必要悪ではなく、不要善なのである。
では、
不要善とは、一体どういう意味なのだろうか?
その前に、
必要悪とは、一体どういう意味なのだろうか?
まさに、
本来(本質的には)必要ないのだが、余計なことをする結果その埋め合わせをするためにしなければならなくこと、に他ならない。
現に、
心臓といった内臓は一生睡眠(休み)を取らずに働いているように、肉体もそして精神も余計なことをしなければ睡眠(休み)を取る必要などないのに、余計なことをするから、その分埋め合わせをするために睡眠(休み)を取る結果になっていて、余計なことをしない純真無垢な子供は精神的疲れなどないから、夢睡眠(精神の休み)を取らなくて済むのである。
では、
不要善とは、一体どういう意味なのだろうか?
まさに、
本来(本質的には)必要だが、まともなことをする結果その埋め合わせをしないですむこと、に他ならない。
まさに、
本質は、必要悪では悪く、不要善では善い証明に他ならない。
まさに、
革命的発見がここにある。
人生においては、必要なことは悪であり、不要なことが善なのであった。
まさに、
これこそ真理なのである。
ところが、
われわれの人生においては、必要なことは善であり、不要なことが悪なのであった。
まさに、
これこそ錯覚なのである。
まさに、
われわれ人間は、幸福を追い求めて、不幸を忌み嫌って生きてきたが、これこそ錯覚だったのである。
現に、
われわれ人間は、健康を追い求めて、病気を忌み嫌って生きてきたことが、何よりの証明である。
なぜなら、
病気が実在するもので、健康などしょせん病気の不在概念に過ぎないからである。
まさに、
不幸が実在するもので、幸福などしょせん不幸の不在概念に過ぎないからである。
では、
この事実は一体何を意味しているのだろうか?
まさに、
健康や幸福が、睡眠と同じ必要悪に他ならない証明である。
ところが、
われわれ人間は、健康や幸福を追い求めて、病気や不幸を忌み嫌って生きてきたのである。
先ずは、
こういった生き方を今すぐ止めることから、はじめなければならないのである。
そして次に、
必要悪である睡眠や健康や幸福を追い求めるのではなく、不要善である覚醒や病気や不幸を受容するようにならなければならないのである。
必要悪である睡眠や健康や幸福を追い求めるのではなく、不要善である覚醒や病気や不幸を受容するようにならなければならない。
まさに、
拙著「自殺のすすめ」「貧乏のすすめ」「病気のすすめ」「不幸のすすめ」「女のすすめ」「悪のすすめ」「愚のすすめ」「弱のすすめ」「地獄のすすめ」「奴隷のすすめ」「悪魔のすすめ」を書いた所以である。
まさに、
地球の意思にとっては、自殺、貧乏、病気、不幸、女性、悪、愚、弱、地獄、奴隷、悪魔が本来の在り方、すなわち、実在に他ならなかったのである。
表現を換えれば、
自然社会の意思にとっては、自殺、貧乏、病気、不幸、女性、悪、愚、弱、地獄、奴隷、悪魔が本来の在り方、すなわち、実在に他ならなかったのである。
ところが、
人間社会の意思にとっては、自殺、貧乏、病気、不幸、女性、悪、愚、弱、地獄、奴隷、悪魔は忌み嫌うべきものであって、それらの不在概念に過ぎない生、金持ち、健康、幸福、男性、善、賢、強、天国、王(天皇)、神を追い求めるべきものになっている。
まさに、
自然社会と人間社会は逆さま関係の証明である。
では、
自然社会と人間社会とでは、どちらが正さま社会なのだろうか?
言い換えれば、
自然社会と人間社会とでは、どちらがまともな社会なのだろうか?
云うまでもなく、
人間社会の方がまともな社会なのだろう?
なぜなら、
われわれ人間は自然社会の生きものを畜生と蔑んでいるのだから。
まさに、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送っている人間社会がまともな社会で、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に無縁な一生を送っている自然社会が畜生の社会というのである。
どうやら、
実体は逆さまのようである。
なぜなら、
正さまのはずの人間社会だけが、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれ、逆さまのはずの自然社会はすべて、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に無縁という道理は、断じてなく、寧ろ、その反対が実体であるからである。
まさに、
必要悪である睡眠や健康や幸福や金持ち・・・を追い求めるのではなく、不要善である覚醒や病気や不幸や貧乏・・・を受け入れる生き方をすることで、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に無縁な人生を送ることができる証左に他ならないのである。
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送る人間社会が、本来おかしな社会なのである。
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖と無縁な一生を送る自然社会が、本来まともな社会なのである。
ところが、
本来おかしな人間が万物の霊長であり、本来まともな自然社会の生きものが畜生と蔑んでいるのが、人間社会なのである。
まさに、
人間社会がおかしいことの証明に他ならない。
従って、
自然社会が、正さま社会に他ならない。
一方、
人間社会が、逆さま社会に他ならない。
まさに、
自然社会の生きものがすべて万物の霊長であって、人間社会の人間は畜生に他ならない証左である。
まさに、
地球の意思は、そう思っているのである。
なぜなら、
地球は、自然社会においても、人間社会においても、母なる大地だからである。
現に、
自分たちはまともな(正さまな)生き方をしていると信じ込んでいる者にとって、イエス・キリストはおかしな(逆さまな)人間に映った、だから十字架に架けたのである。
だから、
イエス・キリストは今際のときに、
“神よ、彼らは自分が何をしているのか、わかっていないのです!”
と言ったのである。
そして、
イエス・キリストを十字架に架けた連中は、自分たちはまともな(正さまな)生き方をしていると信じて疑わなかったのである。
まるで、
彼らとは、一般現代人のことを指し示しているのである。
従って、
自然社会が、正さま社会に他ならない。
一方、
人間社会が、逆さま社会に他ならない。
まさに、
自然社会の生きものがすべて万物の霊長であって、人間社会の人間は畜生に他ならない証左である。
まさに、
地球の意思は、そう思っているのである。
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に無縁な一生を送ることは、本来まともなことなのである。
一方、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送ることが、本来おかしなことなのである。
なぜなら、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖は、まともなことをしていたら無縁な必要悪に過ぎないからである。
まさに、
心身ともに疲れていなかったら、睡眠は無縁なものである(必要ない)ことが、睡眠が必要悪である証左のように、
人生に疲れていなかったら、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖は無縁なものである(必要ない)ことが、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖が必要悪である証左に他ならない。
ところが、
われわれ人間の大人は、快食、快便と共に、快眠が健康の基だと信じて疑わず生きている。
言い換えれば、
睡眠は健康の基であり、不眠症というように、睡眠を採らないことが心身ともに好くないことだと信じて疑わない。
まさに、
睡眠は必要悪ではなく、必要善だと捉えている。
ところが、
必要悪と不要善は表裏一体の一枚のコインとして二元論を構成しているが、必要善などという概念は理論上ありえない。
なぜなら、
必要善と二元論を構成するには、不要悪が必要になるからだが、不要悪などというものは、実在どころか概念すら存在し得ないからである。
まさに、
不要悪とは、本来(本質的には)必要だが、余計なことをする結果その埋め合わせをするためにしなくてすむこと、に他ならず、実在どころか概念すら存在し得ないからである。
必要悪とは、一体どういう意味なのだろうか?
まさに、
本来(本質的には)必要ないのだが、余計なことをする結果その埋め合わせをするためにしなければならなくこと、に他ならない。
では、
必要善とは、一体どういう意味だろうか?
まさに、
本来(本質的には)必要ないのだが、まともなことをする結果その埋め合わせをしないですむこと、に他ならない。
すなわち、
何もしないでいいこと、に他ならない。
では、
不要善とは、一体どういう意味なのだろうか?
まさに、
本来(本質的には)必要だが、まともなことをする結果その埋め合わせをしないですむこと、に他ならない。
では、
不要悪とは、一体どういう意味なのだろうか?
まさに、
本来(本質的には)必要だが、余計なことをする結果その埋め合わせをしないですむこと、に他ならない。
すなわち、
何をしてもいけないこと、に他ならない。
まさに、
必要善と不要悪は、自然社会における実在とその不在概念の関係に他ならないのである。
ところが、
自然社会は一元論世界であって、二元論は無縁な世界なのである。
従って、
自然社会は、不要悪の世界なのである。
一方、
人間社会は二元論世界であって、一元論は無縁な世界なのである。
従って、
必要悪と不要善は、人間社会における実在とその不在概念の関係に他ならないのである。
従って、
人間社会が、必要悪の世界の所以である。
まさに、
罪と罰の概念が、自然社会と人間社会では逆さまになっているのである。

「地球の意思」−おわり−