第二章 個性の誕生

(mind)=(my thought)=(my feeling)=(my conscious)=(Ego)=人間の意思に他ならない。
従而、
(Ego)とは、自我意識ではなく、自他意識に他ならない。
そうすると、
意思とは、自他(複数)の考え、自他(複数)の想い、自他(複数)の意識、自他(複数)の(Ego)、自他(複数)の人間の意思でなければならない。
まさに、
自他の区分け意識が起こらない限り、自己の認識ができない証明に他ならないのである。
そして、
自己の認識、すなわち、“自分は・・・”という考え、“自分は・・・”という想い、“自分は・・・”という意識、“自分は・・・”という(Ego)、“自分は・・・”という人間の意思は唯一ではなく、複数=無数にあることになる。
まさに、
自分の正体は、“自分は・・・”ではなく、“自分たちは・・・”だったのである。
まさに、
“自分は・・・”という自分の心(こころ)の正体がころころ変わる所以がここにある。
言い換えれば、
自分と他者が存在しない限り、個体としての意思は存在し得ないのである。
逆に言えば、
個体が複数=無数あってこそ、それぞれの個性ある意思も発生し得るのである。
まさに、
下記“はじめに”で紹介したように、意思は複数あっての物種である証明に他ならないのである。
拙著「量子力学の陥穽」で論述したように、ミクロの世界の電子からマクロの世界の宇宙の地球まで、それぞれ固有の意思を持っており、ご多聞にもれず、その間の人間ひとり一人にも固有の意思を持っているのは、これらすべてのものを構成している基本要素の電子が、フェルミオンというパウリの排他律が働いていること粒子であることが何よりの証明である。
自他の区分け意識が起こらない限り、自己の認識ができないことは、アメリカで起こったある事件も如実に証明している。
自分と他者が存在しない限り、個体としての意思、すなわち、“自分は・・・”という考え、“自分は・・・”という想い、“自分は・・・”という意識、“自分は・・・”という(Ego)、“自分は・・・”という人間の意思は存在し得ない。
更に、
個体が複数=無数あってこそ、それぞれの個性ある意思も発生し得る。
従而、
自分と他者が存在しない限り、個体としての意思、すなわち、“自分たちは・・・”という考え、“自分たちは・・・”という想い、“自分たちは・・・”という意識、“自分たちは・・・”という(Ego)、“自分たちは・・・”という人間の意思は存在し得ない。
まさに、
個体の意思は、個体が複数あっての物種である証明に他ならない。
そして、
複数の個体が干渉し合うことで、自他の区分け意識、すなわち、意思が誕生するのである。
平たく言えば、
社会(全体)の意思が存在してはじめて、それぞれの個体(部分)の意思、すなわち、それぞれの個性が誕生するのである。