第十三章 意識 & 意思

生きているものには必ず意識がある。
言い換えれば、
運動世界には必ず意識がある。
従而、
われわれ人間にも意識があるように、自然社会の生きものにも意識があるように、地球自身にも意識が必ずある。
なぜなら、
動いているということこそ、生きていることの証だからである。
そういう意味では、
地球自身も生きものということになり、地球を構成している三態として鉱物・植物・動物も生きものということになり、植物と動物だけが生きもので、鉱物は生きものではない無機物だと判断を誤ってはならない。
一方、
量子力学が取り扱う電子は、鉱物でも植物でも動物でも共通する素粒子であり、電子は、拙著「量子力学の陥穽」で論じたように、われわれ人間と同じように意思を持つ。
そして、
電子は原子核のまわりを円運動しているのだから、必ず意識があるはずだ。
では、
意識と意思はまったく同じものなのだろうか?
まさに、
意識とは全体感のことであり、意思とは部分観に他ならない。
そこで、
第四章で述べた「三の法則」を思い出してみよう。
(1) すべては全体と部分を兼ね具えている。
(2) すべては二元論的(実在とその不在概念である映像)
(3)『在り方』と『考え方』は二律背反せず補完し合う。
まさに、
意識が全体であり、意思が部分であり、
意識・意思は二元論世界を構成し、意識が実在し、意思は意識の不在概念であり、
意識が『在り方』であり、意思が『考え方』であり、補完し合う関係にある。
まさに、
意識がホンモノの自分であり、意思がニセモノの自分である自我意識(Ego)に他ならないのである。
ところが、
われわれ人間は、意思を自分だと思い込み、意識は完全に忘却してしまって生きているのである。
一方、
自然社会の生きものや地球は、意識だけで生きているのである。
従而、
電子は意識を持っているのであって、意思を持っているのではない。
従而、
地球は意識を持っているのであって、意思を持っているのではない。
そして、
意思は部分観だから、複数になると干渉し合う。
まさに、
電子の干渉縞は、複数の電子によって生じる映像に他ならない。
まさに、
人間が複数になることによって、差別・不条理・戦争が起こる所以の証明である。
一方、
意識は全体感だから、唯一ゆえ干渉し合うことはない。
まさに、
電子はフェルミオンだから、パウリの排他律が働く証明に他ならない。
まさに、
唯一の自分の世界では、差別・不条理・戦争など起こるべくもない証明に他ならない。