第五百話 生死を掛けた自己の存在の保存

人間社会レベルではセックスであっても、自然社会レベルでは交尾であっても、宇宙レベルでは対消滅現象に外なりません。
二つの肉体が衝突することによって、自己は死ぬ(消滅する)が、新たな生命が誕生する。
セックスがまさに自己の命を掛けた保存本能である所以です。
大人になった鮭が生まれ故郷の川上に戻って産卵して、自分は死んで行く。
女王蜂に種つけをしたオス蜂は女王蜂に食べられて死んで行く。
セックス(交尾)の本来性が対消滅にあることがここに顕れています。
つまり、
セックス(交尾)とは、生死を掛けた自己の存在の保存本能であるわけです。
従って、
生死の問題ではなくて、食う食われる問題である生きものの自然社会では、自己保存本能だけの問題である交尾で止まっているのです。
死の実在を知ったことによって、食う食われる問題だけで止まらず、生死の問題まで進化した人間社会では、生死を掛けた自己の存在の保存本能であるセックスまで発展しているのです。
生死の問題を理解することは、セックスの本質を理解することに外ならない。
セックスの本質を理解することは、生死の問題を理解することに外ならない。
つまり、
死を知った唯一の生きものである、わたしたち人間の存在意義、つまり、使命とは、生死を掛けた自己の存在の保存本能にあるのです。
そして、
生死を掛けた自己の存在の保存本能を継承していく のが、人類のメス、つまり、女性に外ならないのです。
従って、
有知の全体感生きものである女性が中心になった社会が、人間社会の目差す究極の社会なのです。
つまり、
「メス社会」を中心にして、「宗教と科学を超えた価値観」と「支配・被支配二層構造と世襲・相続の差別制度を超えた価値観」と「悩みや四苦八苦、挙げ句の果ての、死の恐怖を超えた価値観」と「差別・不条理・戦争のない社会」を四辺にしたスクエアー(正方形)構造の社会です。
つまり、
「この世とあの世」=「鑑賞席のある映画館の世界」=「主観・客観の世界」=「理解の世界」=「現実の世界」=「絶対・相対の世界」=「静止・運動の世界」=「三元論の世界」=「終点の世界」=「死の世界」=「宗教を超えた世界」=「科学を超えた世界」=「神を超えた世界」=「政治を超えた世界」=「経済を超えた世界」=「歴史を超えた世界」=「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖を超えた世界」=「差別・不条理・戦争を超えた世界」=「必然・偶然の世界」=「『今、ここ』の世界」=「成熟した知性の世界」=「無(限)・有(有限)を超えた世界」=「蓄積の理解の世界」です。
そして、
新しい人間社会のキーワードは、
“生死を掛けた自己の存在の保存”であり、それを実現する唯一の方法は、
生死の問題を理解することは、セックスの本質を理解することに外ならない。
セックスの本質を理解することは、生死の問題を理解することに外ならない。
つまり、
セックスとは生死の掛かった問題であることを理解することです。
生死の問題とはセックスの理解に掛かっていることを理解することです。