第四百五十九話 「知る(気づく)」と「考える」

「理解する」とは「超える」ことに外ならない。
「理解する」とは「知る(気づく)」ことに外ならない。
従って、
「知る(気づく)」とは「超える」ことに外ならない。
一方、
「考える」とは「超えられない」ことに外ならない。
つまり、
「知る(気づく)」と「考える」とはまったく違う次元のものだったのです。
ところが、
わたしたち人間は、知性=「考える」と思い込んできたのです。
ところが、
わたしたち“考える葦”である人間は、知性ある生きものだと思い込んできたのです。
知性ある生きものとは、「知る(気づく)能力」のある生きものだったのです。
知性ある生きものとは、「超える能力」のある生きものだったのです。
知性ある生きものとは、「理解する能力」のある生きものだったのです。
従って、
わたしたち“考える葦”である人間は、知性ある生きものではなかったのです。
「考える力」のある人間は、知性ある生きものではなかったのです。
わたしたち“考える葦”である人間は、「知る(気づく)能力」のある生きものではなかったのです。
「考える力」のある人間は、「知る(気づく)能力」のある生きものではなかったのです。
わたしたち“考える葦”である人間は、「超える能力」のある生きものではなかったのです。
「考える力」のある人間は、「超える能力」のある生きものではなかったのです。
わたしたち“考える葦”である人間は、「理解する能力」のある生きものではなかったのです。
「考える力」のある人間は、「理解する能力」のある生きものではなかったのです。