第四百三十一話 「考える力」が元凶

知性を持たない自然社会の生きものは、「全体感」だけで生きています。
知性を有するわたしたち人間は、「全体感と部分感」で生きています。
知性を有することによって、「部分感」が生じたわけです。
つまり、
個別意識が生じたわけです。
言い換えれば、
主感が生じたわけです。
問題はここからです。
主感が主観に何処かで変節してしまった。
言い換えれば、
「部分感」が「部分観」に何処かで変節してしまった。
つまり、
「考える」という行為が何処かで始まったわけです。
従って、
知性=「考える力」ではなかったのです。
知性=「知る能力」だったのです。
「知る能力」は自然社会の生きものにもあります。
従って、
知性は生きものすべてが具えているのです。
「考える力」だけが、わたしたち人間だけが有している能力だったのです。
まさしく、
「人間は考える葦」である。
では、
「考える力」とは一体どんな能力でしょうか。
「考える力」=区分けする力=判断力に外ならなかったのです。
“これが好くて、あれが悪い”と区分けする力です。
まさしく、人類の祖先であるアダムとイブが善悪の判断をする禁断の実を食べたために、エデンの園、つまり、自然社会を追放された話です。
アダムとイブの処で、主感が主観に変節してしまったのです。
アダムとイブの処で、「部分感」が「部分観」に変節してしまったのです。
「部分感」なら「全体感」に包含されているが、「部分観」なら「全体感」に包含されていないから、分裂症に陥るのです。
「部分感」は知性の功的側面である所以です。
「部分観」は知性の罪的側面である所以です。
知性と「考える力」とは違うことを理解することです。
知性=知る能力で、生きものはすべて具えている。
「考える力」=判断する力=区分けする力=差別する力で、わたしたち人間だけが具えている。
この「考える力」こそが元凶だったのです。