第四百二十九話 社会のない社会

二十世紀までの古代、中世、近代、そして、現代、つまり、地球(惑星)の時代は、
「この世」=「動画面の世界」=「主観の世界」=「概念の世界」=「映像の世界」=「相対の世界」=「運動の世界」=「二元論の世界」=「円周の世界」=「生の世界」=「宗教の世界」=「科学の世界」=「神の世界」=「政治の世界」=「経済の世界」=「歴史の世界」=「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の世界」=「差別・不条理・戦争の世界」=「必然の世界」=「過去・現在・未来の世界」=「未熟な知性の世界」=「有(有限)の世界」=「蓄積の概念の世界」
を常識とした時代でした。
二十一世紀からの新しい時代(新代)、つまり、月(衛星)の時代は、
「この世とあの世」=「鑑賞席のある映画館の世界」=「主観・客観の世界」=「理解の世界」=「現実の世界」=「絶対・相対の世界」=「静止・運動の世界」=「三元論の世界」=「終点の世界」=「死の世界」=「宗教を超えた世界」=「科学を超えた世界」=「神を超えた世界」=「政治を超えた世界」=「経済を超えた世界」=「歴史を超えた世界」=「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖を超えた世界」=「差別・不条理・戦争を超えた世界」=「必然・偶然の世界」=「『今、ここ』の世界」=「成熟した知性の世界」=「無(限)・有(有限)を超えた世界」=「蓄積の理解の世界」
を常識とした時代です。
言い換えれば、
二十世紀までの古代、中世、近代、そして、現代は「組織の時代」でしたが、二十一世紀からの新しい時代(新代)は「個人の時代」です。
「組織」とは、自他の区分け意識(自我意識(エゴ))、つまり、「全体観」から発生する「部分観」に外なりません。
「個人」とは、自他の区分けのない意識(集合意識)、つまり、「部分感」から発生する「全体感」に外なりません。
従って、
「組織の時代」→「個人の時代」=「全体観=部分観の時代」→「全体感=部分感の時代」
まさに、わたしたち人間が二重の錯覚をしてきた根拠がここにあります。
わたしたち人間は、「組織」を「全体観」と捉え、「個人」を「部分観」と捉えてきたのです。
「組織」=「全体」、「個人」=「部分」という錯覚。
「全体感」ではなく「全体観」の錯覚、「部分感」ではなく「部分観」の錯覚。
その結果、
そもそも実在しない、「国家」、「社会」、「会社」、「家族」といった「組織の概念」が人間社会に発生したのです。
しかし、
こういった錯覚は最早許されない時代がやって来るのです。
「国家のない社会」、「社会のない社会」、「会社のない社会」、「家族のない社会」が二十一世紀にやって来る「新しい社会」なのです。