第二百九十七話 とんでもない勘違い

善悪の判断の本質は、“善いことだけをして、悪いことはしない”という判断ではなく、“善いこともするが、悪いこともする”ということに外ならない。
二元論の本質はここにあります。
善・悪二元論の本質は、“善いこともするが、悪いこともする”にあります。
ところが、
わたしたち人間は、“善いことだけをして、悪いことはしない”という不可能な考え方をしてきました。
間違った善・悪二元論である「好いとこ取りの善・悪相対一元論」です。
“善が好くて、悪が悪い”という考え方です。
わたしたち人間は、“善が好くて、悪が悪い”が当たり前だと思い込んできましたが、実は、“善も好くて、悪も好い”が当たり前なのが善・悪二元論の本質だったのです。
従って、
“生が好くて、死が悪い”を当たり前だという考え方は間違った生・死二元論である「好いとこ取りの生・死相対一元論」であって、“生も好くて、死も好い”を当たり前だという考え方が生・死二元論の本質だったのです。
従って、
“オスが好くて、メスが悪い”を当たり前だという考え方は間違ったオス・メス二元論である「好いとこ取りのオス・メス相対一元論」であって、“オスも好くて、メスも好い”を当たり前だという考え方がオス・メス二元論の本質だったのです。
従って、
“強が好くて、弱が悪い”を当たり前だという考え方は間違った強・弱二元論である「好いとこ取りの強・弱相対一元論」であって、“強も好くて、弱も好い”を当たり前だという考え方が強・弱二元論の本質だったのです。
従って、
“賢が好くて、愚が悪い”を当たり前だという考え方は間違った賢・愚二元論である「好いとこ取りの賢・愚相対一元論」であって、“賢も好くて、愚も好い”を当たり前だという考え方が賢・愚二元論の本質だったのです。
従って、
“富が好くて、貧が悪い”を当たり前だという考え方は間違った貧・富二元論である「好いとこ取りの貧・富相対一元論」であって、“富も好くて、貧も好い”を当たり前だという考え方が貧・富二元論の本質だったのです。
従って、
“幸福が好くて、不幸が悪い”を当たり前だという考え方は間違った幸・不幸二元論である「好いとこ取りの幸・不幸相対一元論」であって、“幸福も好くて、不幸も好い”を当たり前だという考え方が幸・不幸二元論の本質だったのです。
従って、
“天国が好くて、地獄が悪い”を当たり前だという考え方は間違った天国・地獄二元論である「好いとこ取りの天国・地獄相対一元論」であって、“天国も好くて、地獄も好い”を当たり前だという考え方が天国・地獄二元論の本質だったのです。
従って、
“神が好くて、悪魔が悪い”を当たり前だという考え方は間違った神・悪魔二元論である「好いとこ取りの神・悪魔相対一元論」であって、“神も好くて、悪魔も好い”を当たり前だという考え方が神・悪魔二元論の本質だったのです。
従って、
“健康が好くて、病気が悪い”を当たり前だという考え方は間違った健康・病気二元論である「好いとこ取りの健康・病気相対一元論」であって、“健康も好くて、病気も好い”を当たり前だという考え方が健康・病気二元論の本質だったのです。
従って、
“支配が好くて、被支配が悪い”を当たり前だという考え方は間違った支配・被支配二元論である「好いとこ取りの支配・被支配相対一元論」であって、“支配も好くて、被支配も好い”を当たり前だという考え方が支配・被支配二元論の本質だったのです。
従って、
“光が好くて、暗闇が悪い”を当たり前だという考え方は間違った光・暗闇二元論である「好いとこ取りの光・暗闇相対一元論」であって、“光も好くて、暗闇も好い”を当たり前だという考え方が光・暗闇二元論の本質だったのです。
わたしたち人間は、とんでもない勘違いをして生きてきたのです。