第二百九十五話 「二元論の世界」=「好いとこ取りの相対一元論の世界」

善悪の判断をする生きものになった人類は自然社会(エデンの園)から追放された。
しかし、
善悪の判断をする生きものになった人類は地上最強の生きものになった。
どうも理屈に合いません。
善悪の判断をするということの意味は何でしょうか。
わたしたちの普段の思考回路では、善悪の判断をするということは、善いことと悪いことを区分けして、善いことはするが、悪いことはしないという行動形態のことだと思い込んでいます。
ポイントは本来一つのものを無理やり二つに分ける点にあります。
一枚のコインの表面と裏面を剥がそうとする行為に外ならず、いくら剥がしても、表面と裏面は永遠に離れないわけですから、不可能な行為なのです。
つまり、
区分け作業は不可能な行為なのです。
言い換えれば、
差別行為は不可能な行為なのです。
だから、
自然社会では、差別はないのです。
人間社会だけに、差別がある。
厳密に言えば、
人間社会だけに、差別があると思い込んでいる。
差別などないのに、差別があると思い込んでいる。
二つの世界観、つまり、「二元論の世界」です。
二つの世界観、つまり、「『在り方』と『考え方』の世界」です。
二つの世界観、つまり、「この世」=「動画面の世界」=「主観の世界」=「概念の世界」=「映像の世界」=「相対の世界」=「運動の世界」=「二元論の世界」=「円周の世界」=「生の世界」=「宗教の世界」=「科学の世界」=「神の世界」=「政治の世界」=「経済の世界」=「歴史の世界」=「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の世界」=「差別・不条理・戦争の世界」=「必然の世界」です。
一体なぜこんなことになってしまったのでしょうか。
善悪の判断の本質は、“善いことだけをして、悪いことはしない”という判断ではなく、“善いこともするが、悪いこともする”ということに外ならないのです。
善悪の判断をしないということは、“善いこともしなければ、悪いこともしない”に外ならないのです。
ところが、わたしたちは、善悪の判断をするということは、善いことと悪いことを区分けして、善いことはするが、悪いことはしないという行動形態のことだと思い込んでいます。
つまり、
好いとこ取りをしているだけのことで、善悪の判断の本質から外れています。
新田哲学では、「好いとこ取りの相対一元論」と呼んでおり、「二元論」の本質から外れていますから、不可能なことなのです。
好いとこ取りは絶対不可能なことなのです。
「二元論の世界」とは「好いとこ取りの相対一元論の世界」のことであり、「不可能な世界」に外ならないのです。
つまり、
「この世」=「動画面の世界」=「主観の世界」=「概念の世界」=「映像の世界」=「相対の世界」=「運動の世界」=「二元論の世界(好いとこ取りの相対一元論の世界)」=「円周の世界」=「生の世界」=「宗教の世界」=「科学の世界」=「神の世界」=「政治の世界」=「経済の世界」=「歴史の世界」=「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の世界」=「差別・不条理・戦争の世界」=「必然の世界」は不可能な世界なのです。
実在しない世界の所以です。