第二百九十三話 「この世」は「映像の世界」の証明

善悪の判断をする禁断の知恵の実を食べた、わたしたち人間の祖先である人類。
エデンの園(自然社会)とは、善悪の判断をしない世界だということです。
そこに、他の生きものたちは生きています。
自然の摂理、つまり、地球の想いは、多分そこまでです。
現に、自然社会で生きている他の生きものたちは、善悪の判断を一切せずに生きています。
空腹になったら、他の生きものを平気で、つまり、善悪の判断なしで、殺して食べます。
ここが、善悪の判断をする禁断の知恵の実を食べ、エデンの園を追放されたわたしたち人間と決定的に違うところです。
善悪の判断をしてはいけないのに、何故、神は善悪の判断をする実のなる木などわざわざエデンの園につくったのでしょうか。
しかも、禁断の実と言っておきながら、知恵の実とも言う。
悪い木だと言いながら、善い木だとも言っているようです。
自然の摂理、つまり、地球の想いは、多分そんなことまでは考えないでしょう。
神の想いと言いながら、多分、当時の人間の想いでしょう。
宗教が主張する人知を超えた神とは、所詮、人間の創造物に過ぎない証明です。
他の生きものと違う自分たち人間を正当化するために、逆転の発想をしたのでしょう。
他の生きものと違って、自分たち人間は善悪の判断をして生きる生きものであるから、他の生きもののように平気で殺したりしない理性(知恵)の持ち主であると言いたかったのでしょう。
だから、
“汝、殺すなかれ”
“汝、姦淫するなかれ”
“汝、盗むなかれ”
“汝、嘘をつくなかれ”
“汝、他人のものを欲するなかれ”
とわたしたちに戒めたのでしょう。
ところが、当時から3000年以上経った現代人間社会でも、依然、差別・不条理・戦争が罷り通っている。
知性(知恵)には功罪両面があることに気づかなかった思慮の浅さを露呈しているわけです。
人知を超えた神の名の下に、“汝、殺すなかれ”と命令すれば、人間はその命令を守ると思った。
だが、“汝、殺すなかれ”と言われれば、“殺したくなる”という知性(知恵)の罪的側面があることに気づかなかったのでしょう。
結局の処、
「二元論の世界」をよく理解していなかったからです。
二元論の本質をよく理解していたら、こんな浅知恵は働かしません。
「二元論の世界」とは、まさに、「映像の世界」である証明に外なりません。
「一元論の世界」の二つの現象を映し出した「映像の世界」である証明に外なりません。
まさに、
「この世」=「動画面の世界」=「主観の世界」=「概念の世界」=「映像の世界」=「相対の世界」=「運動の世界」=「二元論の世界」=「円周の世界」=「生の世界」=「宗教の世界」=「科学の世界」=「神の世界」=「政治の世界」=「経済の世界」=「歴史の世界」=「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の世界」=「差別・不条理・戦争の世界」=「必然の世界」の世界観です。