第二百九十話 支離滅裂な聖書

アダムとイブの間に生まれた兄カインと弟アベル。
兄カインは弟アベルを殺します。
神は怒って、カインを追放され、カインは迷った挙句、エデンの東にあるノドという町に住みつき、人類の祖先が次から次へと誕生していきます。
つまり、
エデンの東にあるノドという町こそ、人間社会発祥の地であるというわけです。
人間とはそもそも罪深き生きものであると聖書は言っているわけです。
アダムとイブも神の命に背き、その子カインとアベルも、善良なアベルを嫉妬深いカインが殺す。
そのカインから、人類の祖先が誕生していくわけです。
人類の祖先が善良なアベルから誕生したなら、支配・被支配二層構造と世襲・相続の差別制度が渦巻く、差別・不条理・戦争の人間社会は生まれなかったと言っているようです。
果たして、わたしたち人間はかくも罪深き生きものなのでしょうか。
それなら、この世の出来事はすべて必然の産物だと言えます。
第二百五十四話「必然と偶然の妙」でお話しましたように、
嘗て、地上で最も弱き生きものであった人類は必死に生きていました。
その結果、二本足で立つことが危険から事前に身を守る手段であることを知り、二本足で立つことが偶然、脳の発達を促した。
わたしたち人間の祖先である人類が知性を得た瞬間です。
二本足で立つことは自分たちが必死になった必然の為せる業です。
しかし、
脳の発達による知性の獲得は偶然の為せる業です
わたしたちの祖先である人類が、二本足になること(頭の位置が高くなること)によって地球の重力が軽減され、脳が発達するなど知っているわけがない。
つまり、
わたしたち人間が知性という地上最強の武器を得て、地上最強の生きものになったのは偶然の為せる業だったのです。
ただ、最も弱き生きものであった故に、必死になって生きている中で、遠くを見渡せる二本足になったお陰です。
つまり、
必然と偶然の妙で、人間による文明社会が誕生し、その罪的側面として、「オス社会」を頂点にして、「宗教と科学」と「支配・被支配二層構造と世襲・相続の差別社会」で底辺を構成するトライアングルが、差別・不条理・戦争の人間社会を発生させたわけで、聖書が言うような、人類の祖先がそもそも罪深き生きものであったというような支離滅裂な観点に、新田哲学は到底賛同できません。
第二百二十二話「どぶねずみ化のバロメーター(7)」でお話しました。
人類の祖先アダムとイブが、エデンの園、つまり、自然社会から追放される原因になった、“善悪”の判断をする禁断の実を食べて以来、わたしたち人間が陥った世界です。
旧約聖書の「創世記」を書いた人間は、自然社会では“善悪”の判断は一切されないことを知っており、善悪の判断をすることは罪であることも知っていたのです。
ところが、同じ旧約聖書の「出エジプト記」を書いた人間は、“汝、殺すなかれ、汝盗むなかれ・・・”と、”善悪”の判断をしろと戒めているのです。
これはどう考えても矛盾しています。
第二百七十五話「神の化身である特別な生きもの?」でお話しました。
先ず、オスであるアダムが神の息吹によって創造され、次にアダムのあばら骨からメスのイブが生まれたというわけです。
人間社会がオス社会である所以です。
神はアダムとイブを他の生きものが住むエデンの園に住まわしたが、エデンの園では善悪の判断をすることは許されていなかった。
ところが、善悪の判断をする知恵の木の実、つまり、禁断の実をメスのイブが食べてしまった。
ここのところが、先ずおかしい。
食べてはいけない禁断の実などつくった神の方がおかしい。
メスのイブが先ず罪を冒し、オスのアダムをそそのかした。
オス社会の“オスが好くて、メスが悪い”根拠がここにある。
更に神は、罪を冒したアダムとイブに罰を与えた。
エデンの園から追放し、罪深きメスのイブに厳罰を与えた。
それが、十月十日の後の子供を産む苦しみをメスであるイブに罰として与えた、というわけです。
ここのところが、決定的におかしい。
特別な存在である人類をエデンの園から追放し、更に罪を冒した張本人であるメスのイブに子供を産む苦しみを与えた神が、エデンの園に住む無実の他の生きもののメスにも子供を産ませたのは、まったくおかしな話です。
エデンの園に住む生きものは、オスが子供を産むのに、罪を冒してエデンの園から追放された人類だけが、メスが子供を産む苦しみを与えられたなら道理です。
ところが、他の生きものも同じように、メスが子供を産む。
この矛盾を神はどう弁明するのでしょうか。

宗教というものは、かくも支離滅裂な類であることを、二十一世紀の新しい人間は気づくことになるでしょう。