第二百八十二話 新田哲学の核心

この世とあの世
この世が「生の世界」
あの世が「死(後)の世界」
この世が「幻想(映像)の世界」
あの世が「実在(現実)の世界」
宗教が主張する二つの世界観です。
この世とあの世を上下の関係の世界に置き、この世に生きているわたしたち凡夫は、あの世のことがわからずに、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれて生きているが、悟りを開いた人間は、あの世のこともわかるから、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれることはない、というわけです。
だから、あの世に神や仏がいるというわけです。
つまり、
個人によって、あの世のことがわかる者とわからない者がいる。
だから、
教祖の言うことを信じなさい。
教義を信じなさい。
と主張するわけです。
新田哲学は、
わたしたち人間がこの世(「現実の世界」)と思っている世界は飽くまで「映像の世界」で、実際に自分が存在している世界があの世(「現実の世界」)であって、この世とあの世の関係は上下の関係ではなく、静止画フィルム(映写フィルム)と動画面(映画・映像)の関係に外ならない。
と主張しています。
生きている世界がこの世で、死後の世界があの世と区分けするのではなく、死が実在(静止画フィルム)で、生が映像(動画面)である。
死が必ずやって来て、しかも、突然やって来る所以が死の実在性にあり、死を怖れて生きること自体が悩みや四苦八苦になるその原因は、「映像の世界」を「現実の世界」と勘違いしているからです。
この世をあの世と勘違いしているからです。
つまり、
この世とあの世を区分けしているからです。
宗教が主張する二つの世界観が問題の元凶なのです。
この世とあの世は、映画(動画面)と映写フィルム(静止画フィルム)の関係であって、この世は「映画の世界」で、あの世が「映写フィルムの世界」であることを理解していないから、映画や夢を観て一喜一憂、つまり、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれるわけです。
従って、
個人個人の考え方に土足で踏み込んで、一つの考え方、つまり、教祖の考え方や教義に強制的に収斂させる宗教に対して、新田哲学は、それぞれ個人の考え方に潜んでいる自己矛盾性、つまり、「映像の世界」を「現実の世界」と勘違いしている点を指摘するだけです。
従って、
新田哲学は客観性の追求に外なりません。
理論を決して絶対視するのではないですが、理論を大事にしているのは、客観性を追求しているからです。