第二百七十三話 真理(「理解」)の社会

自然社会は、真理、つまり、「実在(Substance)」に基づく社会であって、「在り方(being)」に基づく社会です。
人間社会だけが、錯覚、つまり、「映像(Image)」に基づく社会であって、「考え方(thinking)」に基づく社会です。
わたしたち人間が知性を得た故です。
従って、
一から十まで悉く間違った考え方をしている、わたしたち人間が目差すべきは、真理、つまり、「現実(Reality)」に基づく社会であって、「理解(understanding)」に基づく社会です。
旧約聖書にある、「十戒」を代表とする多くの戒めは、人間社会だけに通用する「考え方」に過ぎず、それらは、自然社会では絶対に通用しません。
第二百六話でお話しました。
「是否論」とは、まさしく、建前論であって、本音論ではないのです。
“汝、殺すなかれ”と考える、建前論のわたしたち人間。
“汝、姦淫するなかれ”と考える、建前論のわたしたち人間。
“汝、盗むなかれ”と考える、建前論のわたしたち人間。
“汝、嘘をつくなかれ”と考える、建前論のわたしたち人間。
“汝、他人のものを欲するなかれ”と考える、建前論のわたしたち人間。
ところが、現実には、
“汝、殺すなかれ”と考えながら、殺す、本音論のわたしたち人間。
“汝、姦淫するなかれ”と考えながら、姦淫する、本音論のわたしたち人間。
“汝、盗むなかれ”と考えながら、盗む、本音論のわたしたち人間。
“汝、嘘をつくなかれ”と考えながら、嘘をつく、本音論のわたしたち人間。
“汝、他人のものを欲するなかれ”と考えながら、他人のものを欲する、本音論のわたしたち人間。
つまり、
“好い悪い”で考えた挙句、建前論で“悪い”ことを否定しながら、本音論では“悪い”ことをする分裂症生きものが、わたしたち人間(どぶねずみ人間)なのです。
わたしたち人間は、言葉(建前)では立派なことを述べるが、やっていること(本音)では他の生きもの以下のことをやっておきながら、他の生きもののことを畜生、獣と卑下している。
この極致の傲慢さが知性の罪的側面としてあることを、錯覚、つまり、「映像(Image)」に基づく社会、「考え方(thinking)」に基づく社会で生きている、わたしたち人間は理解していないのです。
そんな人間が、差別・不条理・戦争の社会をつくっているのです。
地球自体から宣戦布告された人間社会は、一刻もはやく、真理、つまり、「現実(Reality)」に基づく社会、「理解(understanding)」に基づく社会を目差さなければなりません。