第二百六十五話 死=部分観の死=“心・魂・意識・精神・霊”の死

自我意識(エゴ)、つまり、ニセモノの自分とは、五感が与える自他の区分け意識であり、眠りと覚醒の違いは、五感機能の程度の差に外ならない。
「生」から「死」への死還と、「死」から「生」への生還とは、五感機能の程度の変化に外ならない。
従って、
わたしたち人間が“自分”だと思っているものの正体は、肉体の一部である外皮(五感)が与える自他の区分け意識であり、本当の自分は、肉体全体が与える地球と繋がった“自分”の無い意識と言えます。
“自分”の無い意識とは、無意識、つまり、“心・魂・意識・精神・霊”など無い状態です。
言い換えれば、
本当の自分とは、地球の意識に外なりません。
本当の自分は全体感である所以です。
一方、
五感機能は厳密に言えば五観機能に外なりません。
見る機能である視覚は、観る機能です。
聞く機能である聴覚は、観る機能です。
匂う機能である嗅覚は、観る機能です。
味わう機能である味覚は、観る機能です。
触る機能である触覚は、観る機能です。
では何を観るのか?
自分と他者を区分けする機能が五感(外皮)機能ですから、観る機能とは自分と他者を観分ける機能に外なりません。
つまり、
観るとは、自分の世界と他者の世界を観分けることに外なりません。
これは何を意味しているでしょうか。
自分と自分の周りの他者の世界とは別の世界であることを意味している。
見る、聞く、匂う、味わう、触るもみんな観ることであることを意味している。
見るもの、聞くもの、匂うもの、味わうもの、触るものもみんな観る対象、つまり、映像であることを意味しています。
観分けるとは、見分ける、聞き分ける、匂い分ける、味わい分ける、触り分けることに外なりません。
突き詰めてみれば、
観分ける五感(五観)機能とは、(自分と他者を)分ける機能に外ならない。
自我意識(エゴ)、つまり、ニセモノの自分は部分観の所以です。
死=自我意識(エゴ)の死=部分観の死=“心・魂・意識・精神・霊”の死、に過ぎません。
“肉体は滅びても、魂は永遠である”
あらゆる宗教が主張する輪廻転生説ですが、言い換えれば、
“全体は滅びても、部分は永遠である”と主張しているわけです。
阿呆らしいも程があります。