第二百六十四話 死=自我意識(エゴ)の死

自我意識(エゴ)、つまり、ニセモノの自分にとっては、
明日のある「生」こそが「生」に外ならない。
明日のない「生」こそが「死」に外ならない。
つまり、
「死」は「生」の不在概念に外ならない。
本当の自分にとっては、
明日のある「死」こそが「生」に外ならない。
明日のない「死」こそが「死」に外ならない。
つまり、
「生」は「死」の不在概念に外ならない。
これは何を意味しているでしょうか。
自我意識(エゴ)の自分(ニセモノの自分)は、本当の自分の正反対の立場に常に立っている証明です。
死を怖がっているのは自我意識(エゴ)の自分(ニセモノの自分)に外なりません。
何故なら、自我意識(エゴ)の自分(ニセモノの自分)にとっては、「生」が実在で、「死」は「生」の不在概念だから、「生」のない状態の「死」を怖がるのは当たり前です。
「死」とは、自我意識(エゴ)の自分(ニセモノの自分)の死に外ならないからです。
本当の自分にとっては、「死」が実在で、「生」は「死」の不在概念だから、死など怖がる必要がないのです。
自我意識(エゴ)の自分(ニセモノの自分)という部分観には死があるが、本当の自分である全体感には死などありません。
何故なら、「死」という静止状態こそが全体感、つまり、自分に外ならないからです。
実在である「死」とは、本当の自分に外ならないのです。
“心・魂・意識・精神・霊”と称しているものは、自我意識(エゴ)の自分(ニセモノの自分)に外ならないのです。
肉体の一部(部分)である五感が与える自他の区分け意識こそが、“心・魂・意識・精神・霊”の正体であり、全体の肉体が死んでしまえば、肉体の一部(部分)である五感が与える自他の区分け意識も消滅し、“心・魂・意識・精神・霊”も消滅してしまうのです。
第二百三十話でお話しました。
摂氏100度以上のHO という分子化合物は水蒸気になり、摂氏100度と0度の間のHO という分子化合物は水になり、摂氏0度以下のHO という分子化合物は氷になるように、形態が水蒸気や水や氷と一見違っていても実相は同じHO という分子化合物なのであり、単に位相の変化、つまり、相転移現象に過ぎないわけで、誕生して生きそしてやがて死ぬことも所詮は位相の変化に過ぎず実相は何も変わらない。
「死」とは、単なる位相の変化に過ぎず、“心・魂・意識・精神・霊”など位相の変化に伴う一波動の揺れ動きに過ぎません。